そもそも教会って何ですか
そもそも教会って何なのか・・・・。
そのような問いかけにたいして、
どれだけの日本人が正しく答えを答えることができるだろうか・・。
あまりにも知らなさ過ぎるのではないだろうかか。
キリストの教会であることも、教会の頭はキリストであることも知らないだろう。
教会のボスは、教皇でも司祭でも牧師でもないのです。
教会の頭は、神のひとり子イエス・キリストなのです。
「御子はそのからだである教会のかしらです。
御子は初めてであり、死者の中から最初に生まれた方です。
こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第1のものとなられたのです。」
(新約聖書・コロサイの信徒へのパウロの手紙・1章18節・新改訳聖書)
「神」という言葉についても、実に多くのイメージが思い浮かぶのではないだろうか。
そうです・・、”キリスト”と”教会”と”神”・・・すべてが結び合わなければならない。
神を知り、理解し、言いあらわすところこそが、教会とつながって来なければ、
教会はその存在の意味を、私たちの生活の領域と同じ線の上に来なければ、
その存在の意味がないのです。
私たち人間は、どのような人であっても、
自分の望みや願いや信頼の対象としての、自分の神?や自分の神々を持っているものです。
自分のものの考えややり方などの根拠となるものを、
それが意識していようが、していまいが、あるいは意識しているかもしれないが、
それを言いあらわすことができるかもしれないが、
はっきりした価値観や世界観を、それが宗教かもしれないが持っているかもしれない。
しかし教会は、まぎれもなく、
神を知り、神を理解し、神を言いあらわすところなのです。
それも、イエス・キリストが十字架の上で死刑となり、葬られ、三日の後に死人のうちからよみがえられた・復活したという出来事を通してのみによってなのです。
そうでなければ教会は、その存在の意味を問われることになるのです。
現代的な言い方をすれば、すでに古風な言い方かもしれないが、
基本的なコンセプトを欠いているなら、
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事にたいする認識を欠いているのなら、
キリストなしで、十字架なしで、啓示なしで、神を理解しようとするなら、
それは内容のない、内容がともなって来ない、精神的に貧弱な、
ただひとりのこの世界を造られた、
私たち人間を愛してやまない神ではない。
それは、ただ神ならぬ神を作り出しているにすぎないのです。
私たちに求められているのは、
「キリストなる神」を、神ご自身によって示された方法によって、
十字架の出来事においてご自身を、すべての人間にたいして行為された出来事によって、
とらえ、見分け、理解し、言いあらわすことが問題なのです。
つまり、現代の私たちは2000年前に起きた出来事を見てはいません。
しかし、その場に居合わせた人たちの証言や、
預言者たちによって書き記された書物から知ることができるのです。
聖書・バイブルを通して神の言葉を聞けない者は、
ただ自分の考えを寄せ集めて言いあらわしているにすぎないのです。
私がこのような小論をタイプしていても、
手元に聖書・バイブルが無くて、また開かれていなくて、
キリスト教的な言い方をすれば、そこに祈りと神の言葉に聞くという姿勢がなければ、
ただのレトリックな空論に過ぎないのです。
聖書・バイブルを開くとき、
それは、私たちに向けられた神の言葉を聞くときなのです。
キリストの福音を通して、自らを知らしめようとされる神に、
自分自身を向けているときなのです。
神ご自身が、すべてにまさるご自身の栄光を、自らが明らかにされているときなのです。
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。
かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、
今はもうそのような知り方はしません。」
(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙・5章16節・新改訳聖書)
だから、教会で神を礼拝する価値が生まれてくるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 15 August 2008.