福音とは、神の行為の開示



ふくいん・良き知らせとは・・・。
福音とは、何なのかという疑問に答えるのは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)、
という出来事・神のなせる業・において、
すなわち、キリストの十字架の出来事という神の行為において、
私たち人間に向けて、言い表わされ、語りかけてくるものなのです。
神の啓示そのものなのです。

しかし、どういう理由からか、
日本のキリスト教の教会の説教では、
この、イエス・キリストの十字架の出来事が説かれ解き明かされる機会が、
ごくごく少ないのが現実です。
キリスト教の信仰において、
根本的な、原理的な出来事なのに・・・。

なぜ、神のひとり子イエス・キリストが十字架に死んだのか。
私たち人間は、万物の創造主・神が造られたものです。
その人間は、創造主である神にたいして、
負い目を償うことのできないほどの罪人なのです。
そして、神の裁きを受けなければならない存在であり、
いや、すでに呪われ、失われた者と言っていいでしょう。
それが私たち人間の現実の姿そのものなのですから。

人間の罪については、
最初の人間・アダムとイブが神に背いて禁断の果実を食べたという
エデンの園の出来事に、起源は、さかのぼります・・・・。

創造主なる神は、私たちの所有者であり審判者です。
このことは明確にしておかなければなりません。
それが神と人間との関係なのです。
この関係を原則としなければ、
キリスト教も、その信仰も成り立ちません。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜18節・新共同訳聖書)

ですから、神のひとり子イエス・キリストの十字架の出来事は、
被造物としての人間と、神ご自身との契約における行為なのです。
約束の行為と言っていいでしょう。
私たちに問われているのは、その約束に答えるか否か、
応じ報いるか否かの問題なのです。

キリスト教では、よく恵み(めぐみ)という言葉が使われますが、
この恵みとは、
神の恵みによって救われ、支えられ、
神に向かって自由にされた者、
神に受け入れられた者を意味します。

神に背いた者が、罪をゆるされ、
再び神の子とされるわけです。

神の恵みの出来事こそ、
神のあわれみの行為・イエス・キリストの十字架の出来事そのものなのです。

決して、私たちが日常を送るうえで必要とされる、
もろもろの物のことを言っているのではありません。

私たち人間を救うには、
神は、そのひとり子イエスを、人として地上につかわし、
罪を認めないイエスを、罪人として十字架につけ、
神の怒りを、イエスの上に下され、
私たちの代わりに、イエスの命をもって、
私たちの負い目を償ってくださったのです。

「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)

何をばかばかしいことを言っていると言われますが、
キリスト教は、
聖書・バイブルに書かれている事柄を、
現実に起こったものとして信じることから始まります。

色々と問題を抱えて悩み多い現代です。
心が弱り、、心が卑屈に、いじけていると思ったら、 それは魂が弱っているからです。
あなたの魂は救われてはいません。
ご自身の魂の救いを考えてみてください。
魂の救いは、ご自身を振り返ることから始まります。


北白川 スー

関連記事・「キリストへの信仰」

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Wrote up on January 27, 2017.