福音とは?
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福音・・フクイン・・喜ばしい知らせ・・・と聞いて、
何を連想するでしょうか。
何を見て、何を聞き、何が思い浮かぶでしょうか。
・・ふくいん・・と聞いて何を考えますか。
この日本では、ふだん、めったに聞くことのない言葉ですから。
福音とは、
救い主メシアであるところのイエス・キリストによってすべての人類が救われるという、
キリスト教の教えを意味しているのですが・・・・・。
では、何から救われるのでしょうか。
何から救われなければならないのでしょうか。
メシア・救い主としての、
神のひとり子イエス・キリストがこの世界に生まれたということは、
この世界は、神の目から見て堕落していることをあらわしているわけです。
世界は、救われなければならない状態なのです。
私たち人間が、一人の例外もなく、
逃れることのできない苦境に、
どうあっても解決できないことがあって、
苦悩に追いつめられ、どうしたらよいのか迷い苦しみ、
逃げることも救われることもできない状態でなければ・・・。
救世主としてのイエス・キリストが、
この世界に生まれて来る必要もないわけです。
戦争からですか、災害からですか、
飢餓からですか、貧困からですか、危険からですか、
人間同士の不和からですか・・・・。
聖書・バイブルが語り示すことは、
2000年前、
イエス・キリストが十字架刑により処刑されたという出来事において、
・・・イエス・キリストの十字架の出来事とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を意味しています。・・・
人類がどのようにして、
人間が生まれながらに背負っている罪深さから解放され、
罪からゆるされたのかを・・・。
イエス・キリストが、自らを罪人となり、私たちに代わり、
十字架につけられ、死ぬことによって、
私たちの罪を贖った(あがない)という出来事です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
その出来事を我が事として受け入れることによって、
つまり、イエス・キリストへの信仰を通して、
本性的な罪深さから解き放たれるという・・・・・。
だれ一人の例外もなく、
すべて人が生まれながらに背負っている罪深さというものが、
人の思いや言葉や行為や行動といったものに影響を与えているということを、
知りまた認識することができるという・・・・。
私たちが、ふだん何気なく、思い、言葉し、行為し行動している状態に、
常に何ものかが影響を与えているという・・・・・・・・。
生まれながらに負っている罪と言う話です。
それを原罪・げんざい・と言います。
信じがたい話ではあるのですが・・・。
救われるために何をしなければならなのか・・・という話ですか・・。
いいえ。
道徳的に良い行いをすることによって救われるのではなく、
態度や姿勢というものを含めて善い行いをするのではなく、
行いによるのではなく、善行によるのではなく・・・・。
私たちを苦しめている、社会のさまざまな問題は・・・、
社会の仕組みや構造といったものの欠陥は・・・、
そもそも人間性そのものに問題があり欠陥があるのだと。
一人の例外もなく、人間というものは、
もとから罪深い存在であり、
その状態から逃れられないのです。
だから、
イエス・キリストに信頼し、
イエス・キリストに聞き従うことによって罪深さから解放されるのだと・・・・。
信仰を持ったからと言って、罪深さが無くなるのではありません。
自分自身の性質を知ることによって、
少しでもブレーキを効かせることはできるでしょう。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたも同じようにしなさい。」
(新約聖書・コロサイの信徒への手紙・3章12〜13節・新共同訳聖書)
現実の問題から抜け出すには、大変なエネルギーを必要とすることでしょう。
努力を傾けても傾けても状況は変わらないかもしれません。
救いというものは、イエス・キリストが十字架の死によって、
すべての人の罪をあがなったという出来事の、
意味と内容とを理解することによって、
救われるのだということを忘れないでください。
「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、
・・・・あなたがたの救われたのは恵みによるのです・・・・
キリスト・イエスによって共に復活させ、
共に天の王座に着かせてくださいました。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、
その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」
(新約聖書・エペソの信徒への手紙・2章4〜7節・新共同訳聖書)
この世界が終末をむかえたとき、
最後の審判のとき、
この世界を造られ、すべてのものを、
人類をも創造された父なる神の前に、
創造主なる神の前に・・・、
つまり、さばき主としての神の前に・・・、
正しい者として立つことができるという・・・・。
「 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章22〜24節・新共同訳聖書)
イエス・キリストは、私たちの罪深さのために、
私たちに代わって死んでくださった神のひとり子イエス・キリストを信じる信仰を通して、
この世界を造られた創造主なる神がそなえてくださった、
永遠の命へ移されることを信じる信仰によって救われるという・・・・・・ことを、
私たちに伝えようと語りかけているのです。
生きている間には幸せが来ないかもしれません。
しかし、その後にくる永遠の命に希望を抱いて生きるのです。
私たちは、目覚めるために眠りにつくことを忘れないでください。
北白川 スー
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Wrote up on November 13, 2016.