一般の人がクリスチャンを見る目というものは



一般の人がクリスチャンを見る目というものは、
また、教会を見る目というものは。
現実から逃げている人たちの集まりのように映っているのかもしれません。

しかし、キリスト教の信仰というものには、
キリスト教の本質にかかわりがあって、
それを抜きにすることが出来ず、
その存在が考えられない性質があります。

キリスト教の信仰の本質や性質が、
キリスト教を信仰している者に、
どうしても現実に正面きって立ち向かっていかなければならないように仕向けるものなのです。
正直に、自分自身に向き合わせるように仕向けるものなのです。

しかしながら日本の現実は別かもしれません。
クリスチャンが少数派である日本においては、
孤独と孤立とを感じているクリスチャンが多いのも事実です。

自分のまわりにクリスチャンがいない、
家族の中でも私だけがクリスチャン・・。
地域社会や会社や学園の中であっても私だけ・・・・。
自分の宗教的なアイデンティティのことで、
そこから引き起こされてくる人間関係に疲れ、
つねに孤立と孤独を感じ、
心に苦痛を覚え、また自らを責めもするのです。

社会の人間関係に疲れ果てているのがクリスチャンかもしれません。
それが日本のクリスチャンの現実の姿なのかもしれません。

ですから、
その人の生き方や考え方や、
その人の人生にたいする肯定的な励ましを期待して、
それらを教会に求めてしまうのかもしれません。

しかし、そうなってしまえば、
逆に、励ましを得たいという姿勢は、
孤立感と孤独をいっそう強くするものになってしまうのです。

自分のまわりにクリスチャンがいない、
家族の中でも会社や学園のなかでも、
地域社会の中にあっても、
自分の思いが通じないものだから、
人の言葉にも飢え・・・、
だからと言って、教会の信徒同士の会話に交流に言葉の渇きをいやそうとするなら・・・。

そのような状態を教会の外から見れば、
何か別の世界のように映りますし、
現実から逃げているように見えます。
教会が閉鎖的になっているようにも見えるものなのです。

しかし、
決して、教会は人恋しさから行くところではありません。
決して孤独をいやすところではないのです。
孤独な人間の言葉に飢えた人たちの集まりではありません。

教会では、常にどのような事柄がメッセージされているのでしょうか。
キリストの教会が、現実から、ひと時でも離れさせてくれる所だと思っていても、
教会で語られる・・キリストの福音・・というものが、
心のわだかまりや、心の中につかえていたり、さえぎっているものを、
その人の心の中に渦巻いている事の核心にまで迫まり、
心の奥底まで映し出し、
その人の本当の姿まで明らかにすることによって、
どうしても、正直に、
自分というものに正面から立ち向かって行かなければならないように仕向けるものなのです。

今まで見ようとはしなかった、また気づかなかった、
自分自身の分別の無さや、
人間の持つ弱さ愚かさ未熟さが明らかにされるのです。
自分に良かれといった性質というものが明らかにされてくるのです。

このようにして明らかにされる、人間の本当の姿というものは、
すべての人の人生に、その思いや言葉や行為に、
どうしょうもないほど影響を与えているものなのです。
すべての人間が共通して持っている、生まれながらに負っている性質なのです。

それを聖書・バイブルは、
人間が本性的に持っている罪深さ・・原罪・・として言いあらわしています。

つまり、
言うにいわれぬ人間の苦悩や苦境というものの原因が何であるかを、
すべての人間が持っている、
生まれながらに負っている性質を明らかにしているのです。

聖書・バイブルのメッセージは、
すべての人に向けて語られるものであり、
ありのままの人間の姿を明らかにするものなのです。
すべての人にたいして、ありのままの自分に気づかせるのです。

すべての人が持っている性質というものは、
人類の共通の祖先である、
最初の人間アダムが、
この世界を造られた父なる神に背いたと言う出来事に起源を持つものなのです。

なんとも荒唐無形な話しを信じているなんて、
クリスチャンは、なんて哀れだ人たちだと思う方もおられるでしょうが、

キリスト教は、この話しからすべてが始まるのです。
それがキリスト教2000年の歴史そのものなのです。

日本におけるキリスト教宣教というものが、
長い歴史がありながらも、
依然として少数派に終始しているのは、
人間の罪深さと、
その罪をあがなうイエス・キリストの十字架の出来事について具体的に語られなかったからでしょうか・・・・。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による・・贖い(あがない)のわざ・・、
という出来事の内容と意味とが説かれず解き明かされなかったからでしょうか。

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章23〜24節・口語訳聖書)

人の、かたくなな心は、
すなわち、人が生まれながらに持っている・・原罪・・罪深さという性質は、
自分の罪深さを認めようとしない原因でもあるのです。

クリスチャンが感じる孤立や孤独というものを、
もう一度、見直しみてください。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事は、
すべての人たちにたいして、
父なる神の究極的な選択と意思の決定なのです。
神が救いの手を差し伸べられた出来事なのですから、

決して孤独や孤立を感じることなどひとつもありません。
何が孤独感や孤立感を生み出している原因なのか探ろうではありませんか。

キリストと共に歩む人生は、孤独も孤立も無縁なのですから。


北白川 スー

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Wrote up on October 08, 2016.