私は、罪など犯してはいません
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「キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章8節・新改訳聖書)
イエス・キリストの十字架の死は、
ひとりの人がすべての人のために死んだことを意味しています。
それは、すべての人が罪深いことを意味しているわけです。
例外はありません。
私は、罪など犯してはいません・・・と言うのなら、
それでは、キリストの十字架の死は意味を失ってしまいます。
たとえ、良かれと思ってやったことであっても、
それは、見当違い、的外れである可能性が非常に高いのです。
クリスチャンであってもノンクリスチャンであっても同じです。
キリスト教の信仰は、
個人的な事情や特殊性の中に存在しているのではありません。
このことは、しっかりと確認しておかなければならないのです。
自分の信仰が、
個人的な特別な事情の上に建てられているのなら、
その信仰は疑ってみてもいいでしょう。
キリストは、すべての人のために十字架に死なれたのですから。
すべての人間は神の創造物です。
私たち人間は、神の作品なのですから。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
神は、ご自分の民のただ中にあって、
ひとりの者を、神のひとり子イエスを人間とならしめ、
この人間を完全に、ご自分にお引き受けになった出来事です。
神のひとり子イエスを、私たちすべての人間に代えて、
私たちに代えて罰するために十字架につけ、
イエスの上に、神の怒りを下されたのです。
イエスは、あなたに代わって、
神の怒りを引き受けてくたざったのです。
私たちは罰せられたのです、死んだのです。
それを受け入れるか否かであり・・・・・・。
罪人であるか否かを問われているのではありません。
「罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、
わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新共同訳聖書)
日本人は、特に、自分自身や自分の能力にたいする過信、
自分自身を信じる傾向が強いものです。
自分を疑うことをしません。
自分の思いや言葉や行為行動を疑うことをしません。
自分を信じて生きることが素晴らしいことだとさえ信じています。
そこから生まれてくるものは、
自分を囲む壁と孤独感だけなのです。
罪を負って生まれてきた人類にたいする、
創造主なる神の、救済の意志とその実現の啓示こそ、
神の究極の選択と決断と行為こそが福音の中身なのです。
北白川 スー
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Wrote up on May 11, 2017.