大切なことは見えない・・すべての人は罪深い



ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

すべての人は、神の前で罪人だということをあらわしています。
罪人だから罪から贖い出されなければならないのです。

法律や社会的なルールに反しているから罪深いのではなく、
人間は、常に罪深い存在だということです。
常に罪深いからさまざまに過ちを犯すのです。

「では、どうなのか。
わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。・・」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9〜12節・新共同訳聖書)
 ・・旧約聖書・詩篇14章・参照・・

イエス・キリストの十字架による贖罪の出来事は、
すべての人間は、
生まれながらに罪深い性質を持って生れてくることをあらわしています。

救い主・キリストがこの世界に生まれたということは、
この世界は神の目から見て堕落していることをあらわしているわけです。
ひとりの例外もなく、
救われることも逃げだすこともできない状態でなければ、
救い主などこの世界に生まれる必要などないのですから。

聖書・バイブルが示しているのは、
さまざまな問題や欠陥を、
人間性の欠陥にさかのぼって考えることなのです。
人間の罪深さが、さまざまな問題を引き起こしているのです。
生まれながらに負っている罪深い性質が、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
ただ気付いていないだけなのです。

こと日本では、
人間は、もともと善なる存在で生まれて来ますが、
社会の構造や悪い環境などで悪くなるのだと考えます。
人は社会のせいで悪くなるのだと・・・・。

救いや救われるということについては、
正しいから救われなければならない・・・と。
罪が無いから救われなければならないと。

聖書が語るのは、
間違っていると認めてこそ救われるということです。

多くの人は、自分は正しいと思っているだけで、
実は、本性的に罪深く、
罪の中をさ迷い歩いていることに気付いていないだけなのです。

人間が生まれながらに持っている罪深さは、
生まれながらに持っている罪深い性質を認めようとはしないのです。

それどころか、
人間を救うのは人間だとかたく信じているのが日本なのです。

自分を信じて自分らしく生きることが、
自分の可能性を活かす、
自分らしさを取り戻すことだと・・・・。
しかし、そう思えば思うほど苦しくなるばかりなのです。

キリスト教の教会で、
イエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされず、
つまり、
キリストの十字架の死による贖罪という出来事が解き明かされていない状況下では、
このような感想が持たれて仕方がないのです。

福音が解き明かされないところでは、
人は、悔い改めて、
いやされることはありません。

「この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、
耳で聞かず、
心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・13章15節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on March 15, 2013.