神は我々に何を求めたのか
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ここで明確にしておかなければならない。
神が私たちを求めているのであって、
決して、私たちが自分にとって都合のいい神を探すのではないのである。
聖書・バイブルは、旧約聖書・創世記の初めに明らかにしている。
創造主なる、父なる神は、私たち被造物、
神の作品としての人間に対して、何を求められたのか・・・。
すべての被造物は、・・創造主へ栄光を返す・・ものなのです。
その目的のために創造されたのです。
しかし、
神に栄光を返すことを拒んだ人間・・・・、
それが私たちの姿なのです。
作品は、作者に栄光を返すために造られる・・・・という原理原則が、
この日本では理解されていない、おろそかにされている・・・・。
産業の分野であっても、芸術の分野においても同様なのです。
労働者は搾取され、
芸術家は、権威とか格式というものに振り回されている。
普段の人間たちは、人間関係に苦しみ、
自分の思う通りにならないことにいらだっている・・・。
キリストの福音は、人の迷いを取り除くために明らかにされた。
自分が置かれている位置が理解できれば、
なぜ・・そうなのか・・が分かれば・・・・。
しかし、日本のキリスト教は、
キリストの福音と人間の暮らしとの関係を解き明かさない・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖罪という出来事の、
内容と意味とを解き明かさない・・・・・・。
今の生活が、福音によって、どのように変わるのだろうか。
大量消費と、大量のゴミが、生きている証しなのだろうか。
後の世に大きなツケを残している証しにほかならい。
決して福音は繁栄を約束しているのではない。
量的生活から質的生活への転換こそ・・・・。
質素、簡素な生活こそ・・・・。
大自然のダイナミックな営みに学ばない人間たち・・・、
亡き人の思いでに生きることが私たちの道ではない。
信仰とは何だろうか。
創造主なる神は、
おそれうやまう存在であることを知らなければならない。
畏敬の念こそ・・・・。
信仰生活とはどのようなことなのだろうか。
信仰生活とは、
日々たえず、自分自身の行為や行動の足あとを、
心の持ち方を、深く見つめることではないだろうか。
自分の思う通りにならないといって他人を責めないで、
自分に疑いを持ち、自分自身に向き合うことを福音は求めている。
「それから、イエスは言われた。
全世界に行って、
すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
(新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on February 08, 2015.