 
アイデンティティーとしての宗教心
 
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普通の人がクリスチャンを見る目というものは、
 何か不思議なものでも見るかのように、
 壊れものでもさわるような、
 ふれてはいけないものでもさわるような、
 興味はあっても、
 世界の違う人には、関わらないほうが得策だと・・・。
 
 信徒さんを見て、
 どうしてクリスチャンになったのだろうかと・・・・思ってしまう。
 何かにつけて感傷的だったり、
 何かとこだわりがあったりするクリスチャンには、
 近づかないほうが得策かもしれない・・・。
 勧誘されでもしたら事だ、用心したほうがいい・・・・。
 
 普通の人々が、自分がクリスチャンになるなんて有り得ない、
 よっぽどのことがない限りクリスチャンになんてならないに決まっていると思っているはずです。
 
 つまり、クリスチャンとして生きることは自然ではないということなのです。
 
 日本人から見れば、キリスト教は外国の宗教ですし、
 イエス・キリストは外国の神なのです。
 
 私たち日本人のアイデンティティは、
 意識しようがしまいが、神道であり、仏教です。
 生活の中で古くから慣れ親しんだ習慣なのです。
 私たちの四季折々の暮らしは、おおいに仏教であり神道なのです。
 
 でも、ときどきキリスト教します。
 クリスマスとかチャペルでの結婚式とか、
 それらが生活習慣として馴染んでいても、
 キリスト教の教えや信条は知らなくても問題は起こらないし、
 何ものも縛られることはないのですから。
 ただ欧米風の様式にあこがれ、取り入れているだけなのです。
 
 例外なく多くの人は、キリスト教の教会を、暗いイメージで見ているはずです。
 日本の教会のイメージやクリスチャンのイメージが、そうさせているのです。
 キリスト教の信仰を、非常に消極的なものとして見ているのです。
 クリスチャンになるということは、
 報いある人生を送ることにはならないと思っているからです。
 
 ノンクリスチャンたちの日常性の中からクリスチャンを見て、
 クリスチャンの生き方に、可能性とか、発展とか、
 成功という言葉を見出すことは、まず、ないと言っていいのです。
 
 筆者である私もクリスチャンでなかったころ、
 やはり教会というところは、
 縁遠く入りづらい所として映っていました。
 日本では、まだまだ暗いイメージがキリスト教をおおっているのです。
 実際、礼拝は、また信徒さんは、暗く沈んでいるのですから。
 
 強いて言うならば、
 クリスチャンが、
 キリスト教的な、あまりにもキリスト教的な小さな世界に生きているものだから、
 迷えるクリスチャンにとっては歓迎されるのだろうけれど、
 教会に用はないと思っている者にとっては・・・・。
 キリスト教に関心を持つこともなく、イエス・キリストに興味を持つこともなく、
 より深く知ろうとも思わないのです。
 
 キリスト教的なものとは、いったいどういうことなのでしょうか。
 キリスト教の聖書・バイブルは何を語っているのでしょうか。
 
 聖書・バイブルが語るのは、
 世界の”すべての迷える人たち”に向かって語られるべき、
 大きな世界へのチャレンジであり、モチベーションであり、
 そうであってこそ、
 キリストへの信仰・信頼というものが導き出されるのではないでしょうか。
 
 問題のない人生を送っている人など一人もいないでしょう。
 問題があっても、それをチャレンジとして受け取めるなら、
 決して希望を失わない姿勢を保つことができるでしょう。
 チャレンジは、新たなチャンスを生み出してくれるはずなのです。
 チャレンジとは、決して努力目標ではなく、
 できないかも知れないではなく、
 負けるかも知れないではなく、
 達成できる、成功する、
 ”その約束のものを手に入れた”ことをあらわしているのです。
 
 経済発展をなしどけだ韓国では3人に1人はクリスチャンです。
 経済発展を成しとげ、新たな問題を抱えている、まさにその渦中にある中国では、
 すでに1億人のクリスチャンが誕生しています。
 クリスチャンが増えれば、社会の矛盾は、白日の下にさらけ出されます。
 中国では、
 「クリスチャンが1人増えれば、優れた中国人がもう1人増える」とまで言われています。
 さらにインドでも、今まさしく、ヒンズーからクリスチャンへと、その数を急速に増やしています。
 
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 (新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2手紙・5章17節・新改訳聖書)
 
 キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
 新しく生まれ変わった人間なのです。
 
 ここで話しを変えてみよう。
 ことキリスト教信仰と言えども、
 世界とか国家とか社会とか共同体とかに標準を置く場合と、
 個人的な生活や必要に基準を置く場合とでは、
 その中身まで違ってくるのかも知れません。
 内向きなのか、それとも外向きなのかの違いでしょうか。
 
 もちろん日本は後者でしょう。
 仮にも、社会を前へ前へと押しすすめているモチベーションに付いて行けず、
 社会から取り残され置き去りにされた人たちを救済する働きがキリストの教会なら・・・。
 社会の荒波に持て遊ばれ、自分でなくなってしまった人たちに、
 はげましたり、付き合ってあげたり、同調してあげたりするのがキリストの教会なら・・・。
 社会に居場所を失った人に、教会がその居場所を提供するのなら。
 社会に傷つき病んでしまった人たちの居場所がキリスト教なら、
 
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 (新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新改訳聖書)
 
 というキリスト・イエスの言葉をどう捕らえればいいのでしょうか。
 特定の人たちに開かれたキリスト教なら、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという、
 イエス・キリストの十字架の出来事は意味を失ってしまいます。
 北白川 スー
 
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Wrote up on August 22, 2016.