喜びを実感していますか
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 日本のキリスト教の教会の礼拝に通っていますと・・・、
 「 あのようなことを書いたのは、そちらに行って、
 喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。
 わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、
 あなたがた一同について確信しているからです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・2章3節・新共同訳聖書)
 ・・・喜びを与えてくれるはずの人たちから、
 逆に、悲しみを味あわせられるときがあります。
 クリスチャンって何でしようか。
 少なくともその生き方は、貧しくとも清らかなものであり、
 この世のさまざまな縄目から、
 縛りから解き放たれている人たちのはずです。
 なのに、いまだに過ぎ去ってしまった日々にこだわり、
 自分自身の生き方や考え方にこだわり、
 社会の混乱に心を痛め、
 何かの行動に出なくてはいけないと心を煩わしている・・。
 また、それとは気付かず・・・・。
 さらには、今どきの豊かさと言われる暮らし向きを求めて苦しんでいると思わされるクリスチャンによく出会います。
 神のひとり子イエス・キリストは何のために十字架にかけられ死刑となり、
 葬られ、三日の後に死人から復活されたのでしょうか・・・・。
 私たちのすべての負い目を重荷を、
 その身に負って死んでくださり、
 死にまで従い、さらには死人のうちから復活されたのでしょうか。
 聖書・バイブルの中でパウロは言っています。
 「 神に感謝します。
 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、
 わたしたちを通じて至るところに、
 キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・2章14節・新共同訳聖書)
 クリスチャン自身が、キリストの福音の素晴らしさ、
 この世の縄目から解放された喜びを実感していなければ、
 キリストの喜びを伝えることなどできないのではないでしょうか。
 イエス・キリストに出会う前は、
 私たちの心には、おおいが、カバーがおおいかぶさっていました。
 さまざまな欲に、さまざまな思いに、さまざまな思い悩みに、
 地位や名誉や金銭や財産や、物や異性に、
 とらえられとらわれ封じ込められていたのです。
 しかし、私たちの心が、
 イエス・キリストに向きを変えたとき、
 そのさまざまな欲や思い悩みの真の姿を知ったはずです。
 自分の追い求めていたものが、
 自分にとって大事なものだと思っていたものが、
 実はそうではなくて、
 絵に描いたモチにすぎなかったことを、
 ただそれらのものに心をうばわれ体を奪われていただけなのだと知ったとき、
 そのおおいは取り除かれたはずなのです。
 キリスト教の信仰を持つ者にとっての、
 もっとも特徴的なものは、
 「神は言われた・・・わたしはあなたとともにいる。
 これがあなたのためのしるしである。・・・」
 (旧約聖書・出エジプト記・3章12節・新改訳聖書・参照)
 このように言われる方の存在を、
 いつもリアルに感じ取って生きていくことができることではないでしょうか。
 その体験が、どれほどの安心感を与えてくれるものなのかは、
 クリスチャンでなくては味わえないものなのです。
 世間が言うところの豊かさとは、
 比べることのできないものなのです。
 帰るところのある者の感覚・アイデンティティと言っていいでしょう。
 イエス・キリストと出会ったとき、
 イエス・キリストへの信仰を持ったときに味わう、
 価値観の大転換というものは、
 まさしくアメージングな体験なのです。
 何というおどろき、何という快感、
 心がワクワクするものなのです。
 それがアメージング・グレイスなのです。
北白川 スー
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Wrote up on  25 May, 2012.