その場を支配する考え方



企業や職場などの共同体で、品質や効率や生産性と言った、求められる課題や目標に向かって、
皆が力をあわせて作業を進め行動を共にしているとき、
決まって、その意味を理解できず不興和音をひびかせる人がいるものです。

企業であれ学園であれ、教会であっても、
その場を支配する、共有しなければならない、基準となる考え方があります。
その考え方との正しい関係に入れない人が混乱を引き起こしていると考えられます。

共有しなければならない存在理由がなければ、共同体でもなくただの人間の集まりに過ぎません。
共同体としての存在理由があればこそ、
統一性も方向性もビジョンをも共有することができますし、
ことを起こせばスムーズに進むはずです。

自分が属している共同体の中でビジョンが正しく実現されるためには、
その場を支配している意義とか存在理由が何であるかを正しく見極めなければならないのです。
しかしときとして、その肝心要の固有の存在理由が、はっきり示されず、
灯台に光が点っていないかのようなとき、
私たちは、どこへ向かって行けばいいのか分からなくなり、混乱と不安がその場を支配することになります。
現代の日本社会では、その存在理由がはっきりと示されない場合が多いように思えます。

キリストの教会では、もちろん
キリストの福音・イエス・キリストの十字架の出来事がその存在理由にあたるわけです。

キリスト教的に言えば、
福音が、すなわち神の啓示の出来事が、
イエス・キリストの十字架の出来事が十分に輝いていない場合に混乱は起きてくると言えます。

教会は、人間の処理にゆだねられた一つの施設ではありません。
社会の中で、社会的な役割を持った施設ではありません。
教会は、神の啓示の出来事が明らかにされるところなのです。

共同体の中で、混乱の中にある人を責めてはいけません。
なぜなら、すべての人間は、もともと罪人なのですから、罪深い性質を負った罪人なのですから。
私たちは、もともと混乱と混沌の中にあり、呪われた存在なのです。

「正しくないことを行なって真理をはばんでいる人々の、
あらゆる不信の心と正しくないことに対する神の怒りが、天から現わされます。」

  (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章18節・フランシスコ会訳聖書)

神との正しい関係に入れない人、
つまり神に聞き従わない人は、神の怒りとして罰を受けると語っています。
しかし、
キリストの福音が、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが、はっきりと語られ示されているところに救いはあります。
キリストの福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だからです。

「人を救うのは神の義であり、
その救いはひとえに信仰を通して与えられるということが、福音に現われています。」
『正しい人は信仰によって生きるのである。』と記されているとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・フランシスコ会訳聖書)
(旧約聖書・ハバクク書・2章4節・参照)

しかし、私たちにとって、正直に心を開いて、
人の意見や忠告を受け入れることほど容易なことではありません。
私たちの心に「かたくなさ」と、ゆがんだ自尊心から来る「聞きたくない」とが同居しているからです。

しかし、その思いを圧倒するもの、それがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
私たちの暮らしの中に、人生の中に、イエス・キリストの十字架の出来事という、
その存在感が大きく位置を占めていれば、闇夜に輝く灯台を見いだしたごとく、
私たちは迷うことはないでしょう。


北白川 スー

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Wrote up on June 19, 2015.