神の啓示を聞くところこそ教会そのものなのです


 私たち人間が、神の啓示を、

 つまり神の意思、神の決断、神の態度、神の選択というものを、

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざ・・・・という、

 イエス・キリストの十字架の出来事から聞き取るならば・・・、

 そうするならば、初めて、まことの信仰へと、

 信仰の対象である神の求めにつながっていくのです。


 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)


 多くの場合、ときとして人間は、人間が望み求め欲するものを教会に求めようとします。

 それが切実なものであっても、

 教会が、この世と同じような、世間と同様の価値観を持ち合わせているならば、

 この世と同じものを提供しようとするなら、

 その場は、神の啓示が語られ、また聞く場所ではなくなるのです。

 神の啓示は、私たち人間を求めています。

 しかし、

 私たちは、おおいにそれを拒絶し、神の啓示を聞こうとはしません。

 それが現実の私たち人間の姿そのものなのです。

 私たちがイエス・キリストにたいして信仰を持つということは、

 イエス・キリストが他を圧するだけの、圧倒的な輝きを持っているからなのです。

 教会が人間的な逃げ場所なら、

 一般社会で居場所を失った人たちの居場所ならば、

 この世界を造られた創造主なる神は、

 そのような人たちだけに、あわれみを持っておられるのでしょうか。

 神が救おうとされている人たちとは、

 だれひとりの例外もなく、

 神に背いてしまったけれど、

 神が創造されたすべての人間なのです。


 「ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。

 もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、

 それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、

 多くの人々に満ちあふれるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章15節・新改訳聖書)


 イエス・キリストは言われました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・新改訳聖書)


 私たちがこの世と同じ価値観を持ち続けるならば、

 手に入れたものから離れまいと、しがみつき続けるならば、

 苦しみも傷もいやされないことでしょう。

 この世の価値観を捨て去って、

 新しく神の価値観のもとに入ることこそ、

 新しい人生の道が開けてくるのです。

 神の啓示を聞くところこそ教会そのものなのです。

 創造主なる神に聞き従わない被造物は、

 ただ裁きが待っているだけなのです。

 陶芸家が出来の悪い作品を土に戻すのは当然です。


北白川 スー

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Wrote up: 12 May 2010.