今や危急のときである
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終末へとひた走っている世界。
今、限りある人生の中で方向転換しなければ、
永遠の命を得ることはできない。
私たち人間の命には限りがあります。
いつかは、必ず死をむかえます。
この世界には、危険や災難が間近に迫っているのです。
かならずや神の審判の時はやってきます。
それは、神の怒りの裁きのときなのです。
それは、未だかつて経験したことのない、
人間が経験することのできる最も恐ろしい、
大苦難のときなのです。
今・・・・、
そのまま生き残ることができるのか、
それとも滅びてしまうのか、重大なせとぎわなのです。
眠っているあいだにも時は過ぎていきます。
時は今も過ぎていくのです。
有限と永遠との間に・・・いまや危急のときなのです。
限りある人生の中で方向転換しなければ、
神の裁きの対象となり、
永遠の命を得ることはできないのです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
だから、教会では、
緊急性をもって危機感を持ってキリストの福音が語られるのです。
今、このとき、方向転換が求められているのです。
教会では、福音の内容であるところの、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
緊急性をもって解き明かされるのです。
「 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章15〜18節・新共同訳聖書)
福音とは、
私たちの、この世界を造られた神にたいする背きの罪のために、
神のひとり子イエスは、
私たちに代わって、
その身に裁きを受けて死んでくださったのです。
そのイエスを信じる信仰によって、
その信仰を通してこそ、
この世界を創造された神がそなえてくださった救いへの道が開けてくるのです・・・・。
では、何から救われなければならないのでしょうか。
もちろん、神の怒りの裁きからです。
見方を変えれば、私たちは、
ずいぶんとせきたてられているのかもしれません。
時間は、あまり残されてはいないのですから・・・・。
たかが人生100年です。
あっという間に過ぎ去ってしまいます。
北白川 スー
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Wrote up on 16 April 2011.