福音は、変化を向きを変えることを求める



福音は、人間をその場に留まることを求めてはいない。
福音は、決して人の正義を求めるものではない。
決して正義を目指すものではない。
むしろ、人間の弱さ愚かさを明らかにするものなのです。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。・・・」
(新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・新共同訳聖書)

人は、自分の正義が得られない苦しみを常に味っている。
自分の思う通りにならないことにいらだち。
自分を信じて生きて行くことに、
自分は正しいと、
少なくとも清い心の持ち主でありたいと心を痛めている。

自分は間違ってなどいない、なのになぜ評価されないのだろう。
まわりから自分の生き方が評価されないことに恐怖を覚え、
無視でもされようものなら途端に怒りを覚えるものなのです。

自分に合わないものを拒み、
自分のやり方や考え方を疑うことをせず、
自分の歩んできた過去の上に自分を立てようとする。

人は、なぜに過去にこだわるのか、
人は、なぜに過去に生きようとするのか、
自分を築いてきた過去に、
過去に生きようとするなら、変化を求めることはない。

しかし、福音は、
過去から救われなければならないことを明らかにしているのです。

キリストの福音すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

あなたは、他のすべてから特別な存在ではない。
すべての人類は、生まれながらに罪深い性質を持って生れてくることを明らかにしているのです。
そして、罪深い性質からの解き放ちをあらわしている。

決してありのままが最善ではない。
その場に留まってはいけない。
キリストの福音は、
向きを変えることを、変わることを求めているからです。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
(新約聖書・マタイによる福音書・3章2節・新改訳聖書)

神のひとり子・救い主キリスト・イエスがこの世界に生まれ来たということは、
この世界が、神の目から見て、堕落している証拠なのです。
私たちが逃げることも救われることもできない状態でなければ、
キリストがこの世界に生まれ来る必要などないのです。

私たちは、さまざまなものにとらわれている・・・。
そうしなければならない・・・と。
そうあるべきだ・・・・と。
そう思えば思うほど、苦しみは増し加わってくる。
それが、自分の思いであっても、共同社会の求めであっても・・・。
それは、私たちの生まれながらに負っている性質がそうさせているのです。

変化を求め、向きを変えるといっても、
決して、豊かさや繁栄を求めるものではない。
あえて言えば、まったくその逆なのです。

神の意志に立ち返ることを・・・。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし、今は、律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしされて、
神の義が示されました。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20〜21節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on September 22, 2014.