あるべき本来の世界から


 私たちには、日々の暮らしのさまざまな願いや欲求があります。

 どうしても必要で大事なことなのです。

 しかし、その姿を外から見つめてみますと・・・、

 現実の世界にとらわれて、あるべき本来の世界から離れてしまっているのです。

 私たち人間には、もともと所属するべき故郷がありました。

 しかし、今は、また現実は、その故郷を追われ、

 ふるさとに帰ることもできず・・・、

 故郷を失ってさ迷っている状態なのです。

 私たち人間は、” 神の啓示 ” に出会って初めて、

 初めて、もともと所属していた、

 つまり、この世界を造られた創造主なる神の支配の下に存在していたことを知らされ、

 再び、その支配の下に入るチャンスを、

 神の啓示によって明らかにされ、示されたのです。

 その、神の啓示こそ・・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざ・・・・、

 そのものなのです。

 現代に暮らす私たちは、その出来事を見てはいません。

 しかし、聖書・バイブルの中に描かれている預言者や、

 その場に居合わせたイエスの弟子たちの言葉と証しによって、

 その出来事を知ることができるのです。

 それは、私たちが故郷を追われて以来、

 忘れ去ってしまったことがらなのです。

 そのイエスの十字架の出来事に出会って、

 その真理性に気づいたとき、

 生きざまは、迷いと混沌の中から、

 大きく向きを変えることになります。

 もともと所属していた、

 あるべき本来の姿へ・・・・。

 しかし私たちには、現実の欲求や願いが重たくのしかかっています。

 その力は、あまりにも大きく、

 あるべき本来の世界へ視線を向けることを妨げているのです。

 神の啓示を聞くことも、受け入れることも、

 忘れさせるほど、その力は大きいのです。


 「しかし、今は、律法とは別に、

 しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、

 それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

 それは、ご自身の義を現わすためです。

 というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章21〜25節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 10 August 2010.