福音に立つ



社会では、さまざまに社会的な問題が大きく注目され、
人の心をさわがせ悩ませています。
キリスト教であっても、
それらの社会的な問題を深刻なものとしてとらえ、
何らかの行動に移しているクリスチャンはおられます。
キリスト教の信仰において、
クリスチャンとして、
社会的なテーマに加わり、
行動を起こすことが好ましく、
また、すすめられることなのでしょうか。

聖書・バイブルは次のように語っています。

「さて、わたしたちが知っているように、
すべて律法の言うところは、
律法の下にいる人々に向けられています。
それは、すべての人の口がふさがれて、
全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、
律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章19~24節・新共同訳聖書)

聖書は、むずかしい文章で表現していますが、
律法を行なうことによっては、
神の前に正しい者として立つことはできないと語っているのです。
共同生活を営む上で、
それが不可欠なものとして、
道理にかなっているように思えても、
しなければならない、ということではなく。
社会の存立に、
それがなければ成り立たないと思われるものとは別に、
またその外に、
神の正しさが示されている・・・と。
神の義に従うことこそが、
すべての解決につながるのだと。

社会的な問題が起きるその背景には、
人間の生まれながらの性質としての、
人間の弱さ愚かさがあるわけです。
聖書・バイブルの考えは、
社会の欠陥を、
社会の構造やシステムの問題ではなく、
人間性の欠陥に見るのです。
人間の心の中に問題があると示すのです。
その行ないが道理にかなっているように見えても、
社会的な問題に取り組むのではなく、
人間の本質的な性質を明らかにすることこそ、
救いへの近道だと・・・・・。
人間の心の弱さ愚かさが、
さまざまな問題を引き起こすからです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
キリストの福音が解き明かされる機会に恵まれていないクリスチャンの多くは、
行ないに走ることが道理にかなっていると考え、
それが信仰だと考える傾向にあります。
しかし、
キリストの贖罪の出来事、
キリストの福音に聞き、
かつ理解していなければ、
福音に立って物事を見、
また考えることはできないのです。

クリスチャンであっても同じ人間です。
人間が人間を裁くことは・・・・・。
裁きは神の専権事項なのですから。
裁きは神の思うままになされるのです。
私たちのできることは、
人を裁くのではなく、
福音に立ってものごとを見、
また考えることだけなのです。

自分を含めた人間が、
すっかり迷いの道の中を歩んでいることを自覚しなければ、
迷いから抜け出し、
救い出されることはないのですから。


北白川 スー

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Wrote up on January 10, 2013.