自分が望むことが福音なら
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人間は、世俗で生きている以上、
日々さまざまに、心を悩ませ痛め苦しめる問題を抱えています。
心を悩ませ苦しめ痛める問題が、
自分の思う通りに成ることが福音なら・・・。
その福音は、決して聖書が言うところの福音ではないのです。
なぜに、心を悩ませ、苦しめ痛めるているのか、
その、根本的な原因を明らかにし、
そこから解き放ち、抜け出させることを聖書は福音と言います。
心を悩ませ苦しめ痛めている問題が、
自分の望むように、思う通りになるのではなく、
まったく外へ、また別なところへ、聖書は導いてくれるのです。
聖書・バイブルの言葉は、
自分が、まことに小さいことに囚われていたことを見い出させるのです。
人は、自分の望む通りになるように願い求めるものですが、
そうではなく、またっく別なところに、
その人を立たせてくれるのです。
聖書・バイブルは、
人間は基本的に根本的に、
愚かで弱く小さい存在であることを明らかにします。
そうだからこそ、自分を苦しめている問題ではなく、
まったく別な視点から観点から、物事を見させてくれるのです。
自分が囚われていた問題は、実は、実に小さく、
その問題とは別に、
もっと大切な事柄があることを気付かせてくれるのです。
人間は、大切なことは、見えていないことを明らかにします。
そして、ありのままの自分を気付かせてくれるのです。
それが聖書・バイブルが語っている内容なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事こそ、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそ、
ありのままの自分の姿を気付かせてくれる出来事なのです。
私たちのすべての思いや言葉や行為や行動の、
その背景にあるものを明らかにするのです。
つまり、生まれながらに負っている性質というものをです。
その性質が明らかになってこそ、
そこからの解き放ちが可能となります。
生まれながらに負っている罪・原罪というものが、
明らかにならなければ、そこからの解放はあり得ません。
福音は、どうしてだったかを、すべてを分からさせるのです。
なぜ、そうだったのかを。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・新共同訳聖書)
「しかし、今は、律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしされて、
神の義が示されました。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章21節・新改訳聖書)
私たちは、逃げることも救われることもできない状態にあることを知らなければならないのです。
何ものかに囚われていることを。
それが分からなければ、そこから抜け出すこともできません。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on November 01, 2014.