信仰というものを考えるとき


 私たちが、信仰というものを考えるとき、

 何らかの形で、私たちの暮らしに益をもたらすものとして考えているはずです。

 個人的な必要のために・・・・。

 ・・・・元通りになることを求めたり、

 ・・・・不足を補うものとしてであったり、

 ・・・・さらなるものを手に入れるためにであったり、

 そうすることによって暮らしは最善の状態になるはずだと、考えているはずです。

 自分が望んでいるようになってほしいと・・・。


 私たちには、様々な暮らしのいとなみがあります。

 その暮らしに深くかかわっているものとして信仰というものをとらえています。

 そのような中で、

 この世界を造られた父なる神を、子なる神を、聖霊なる神を礼拝するとは・・、

 あがめ、尊び、たてまつるということは何を意味しているのでしょうか。


 聖書・バイブルは、

 ”何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って心配するのやめよ”と語っています。

 さらに、”父なる神は、それらがみなわたしたちにとって必要なものであることを知っている”と語ります。

 だから、”神の国とその義をまず第1に求めよ” と、

 ”そうすれば、それに加えてそれらのものはすべて与えられる”と・・・。

  (新約聖書・マタイによる福音書6章31〜33節・参照)


 個人的な必要を手に入れるための信仰なら、

 次の聖書の言葉をどのように理解すればいいのでしょうか。


 「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

  (新約聖書・ヨハネによる福音書3章15〜16節・新改訳)


 私たちにとって”神”という存在を、

 神への信仰というものを、どのようなものとして考えればいいのでしょうか。

 私たちには、知り得ない存在に、

 私たちにとって、見ることのできない存在に、

 はるかな存在にこそ、目をとめ、思いをはせ、信頼をよせることこそ信仰なのです。

 私たちの暮らしのいとなみの外側に存在している、

 人間の部分ではない・・・。

 信仰を、人間の部分で判断するのではなく、

 生きる過程の外側に目をやり思いをはせることこそ信仰なのだと・・・。

 言い換えれば、

 人間が選びとることのできる範囲や領域に神を見いだすのではなく、

 私たちとは別に、私たちの存在の外側に、

 外に在る存在が、私たち人間と深くかかわりを持っていること知ること・・・。

 それが信仰なのです。


 イエス・キリストが、十字架の上で、その命を死にわたすことによって、

 私たちの身代わりとなって、

 私たちの罪の代価を支払ってくださったという出来事こそ・・・。

 私たちの外側から、神と私たちとの間に入り込んだ・・・・、

 外側と私たちとを結びつける出来事だったのです。


 個人的な必要にのみ目を留めるのではなく、

 私たちひとりひとりそれぞれの今を受け入れ、

 外側にある存在とのかかわりにおいて・・・。

 そのかかわりの意味を考えることこそ・・・・。


 私たちは神の”端末”なのです。

 しかし、そうだとは誰も知らない・・・・。

 だから、だれもアクセスしようとはしない・・・。

 神の端末である私たちが、神にアクセスすることこそ信仰ではないだろうかと・・・。

 私たちの外側にあっても、私たちを見守り、私たちと共にある存在にアクセスしようではないか。


北白川 スー

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Wrote up: 14 April 2008.