禁欲から抜け出して



長いキリスト教の布教の歴史をもっている日本です。
しかし、いまだに広がりを見せない少数派に甘んじています。
その理由はいったい何なのでしょうか。
少数派であることは、何を物語っているのでしょうか。

今、キリスト教の教会が問題にしなければならないのは、
ごく少数派のクリスチャンがどのように生きて行くかではなく、
残された大多数のノンクリスチャンの人たちに、
どのようにイエス・キリストの福音を伝えていくのかということのはずです。

日本のクリスチャンは、
冠婚葬祭や神道や仏教などの、
日本の伝統的な生活様式を引きずったまま信仰生活を送っています。
日本の伝統的な地域社会の共同生活の秩序に悩まされています。

教会生活でさえ、クリスチャンであることから来る、
あれはいけない、これはいけないと、
禁欲主義や律法主義に悩まされています・・・。

キリスト教の信仰は、
キリスト教的な規則を守ることではなく、
信仰生活をいかに送るかということでクリスチャンを縛るものではないはずです。

神仏を拝まない、タバコはいけない、酒はダメ・・等々、
さまざまな禁止事項の中で禁欲主義的な生活を送ることではないはずです。
ただそれらは、
生きて行くのに必要ないというだけの話しです。
クリスチャンであろうが、
ノンクリスチャンであっても同じなのです。

クリスチャンとは、あれはいけない、
これはいけないというような、
きゅうくつなものなのでしょうか。
大多数のノンクリスチャンたちが、
そのように感じ取っているのなら、
キリスト教の信仰は日本に広がるはずがありません。

聖書・バイブルが語っているのは、
神の愛と献身であって、
神の愛と神の義に根ざした自由な信仰生活であるはずです。

だから、ひとりの人がすべての人のために死んだのです。

大多数のノンクリスチャンの人たちは、
肉体の欲や、五感の欲や、暮らし向きの自慢や、
地位や格式や品格といったものが、
ブランドやステータスであって、その上に立っています。

それらはブランド・罪人に押された焼印なのです。

キリスト教の信仰は、それらの世の欲の外に、
また別に、もっと素晴らしいものが、
生き生きとしたものがあることを証ししているのです。
またそうでなければいけません。

「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。
しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」

(新約聖書・ヨハネによる第1の手紙・2章17節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルが語る信仰からほど遠い、
キリスト教的な律法主義に気を奪われ悩んでいたのでは、
この世界を創造し、私たち人間をも創られた神の義を、
この世の欲に囚われている多くの人たちに証しすることはできません。

教会やクリスチャンは、
生き生きとした明日に希望あるキリスト教の信仰を示さなければ、
この世の欲に縛られた多くの人たちを、
イエス・キリストの十字架の下に導くことはできないのです。

イエス・キリストは、
すべての人のためにその命を十字架に捧げられたのではありませんか。

「なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20〜24節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 08, 2013.