私たちに問われているもの


 言葉が悪いですが、キリストに引っかかったとき、

 キリスト教にかかわりだしたとき・・・・、

 正確には、イエス・キリストに捕らえられたときと言えば正しでしょうか。

 そのときから、” 何をどう探したらいいのか分からない ” ということが起きてきます。

 つまり、キリストは、何を私たちに求めているのか・・・・ということです。

 しかし今の今まで、キリストに聞く耳を持たなかった存在だったわけですから。

 キリストに捕らえられてからも一生懸命になって、必死になって捜し求めるのですが、

 なかなかたどり着けません、それがなんだか分からないからです。

 その答えは・・・・・自分を知るということ、

 基本的に私たち人間の性質が問われているということなのです。しかし・・・・。

 私たちの性質に問題があるわけなのですから、

 答えにたどり着けないのも当然なのです。

 本当の自分というものを知ること・・・・。

 それは、

 ” ひとりの人イエスがすべての人のために死んだ ” という出来事に集約され象徴されているのです。

 キリストには、いろいろな要素があるのですが、

 それをひとつの表現にまとめたものなのです。

 それは、イエス・キリストの十字架の出来事という、

 日本人にとって実につかみどころのない内容を、

 具体的に、また直接的にあらわしているのです。

 正直なところ、

   ” ひとりの人がすべての人のために死んだ ” と言われても。

 それが何を意味していて、また何を指し示しているのか、

 さっぱり分かりません・・・・・・・。

 それは、

 基本的に私たちの性質が問われているということ・・・・。

 私たち人間の罪深さ・・・・・を、

 ” 罪とは何であるのか ” ということについて問いかけられているからです。

 つまり、この世界を造られた神が、

 その神のひとり子であるイエス・キリストにおいて、

 十字架によって、罪という問題を、

 どのように処理し取り扱われたということを知ることによって、

 初めて、私たち人間の本性的な問題、

 生まれながらに負っている問題が何であるかを明らかにしているのです。

 この世界を造られた神が、私たちをどのように見ておられるか、ということなのです。

 神は、罪という問題をそのまま放置されることはありませんでした。

 罪を認めない神のひとり子イエスを、人間として十字架にはりつけ、罪人として処刑することによって、

 わが子イエスの上に神の怒りをくだすことによって、

 罪という問題に決着をつけられたのです。

 イエスの命をささげることによって、私たちの罪の代価を支払われたのです・・・・私たちはあがなわれたのです。

 つまり、イエス・キリストの十字架の出来事は、神との和解の出来事でもあるのです。

 クリスチャンとは、神と和解した人たちだと言うことができます。

 現実の日本は、その大多数が、大部分が、

 この世界を造られた父なる神に、

 いまだに背中を向け続けています。

 この世界を造られた神を正面に見据えてはいません。

 そんなばかげた話はない・・・と言われそうですが。

 ですから、イエス・キリストの十字架の出来事が、

 和解の出来事なのだとは、まったく知りませんし、まったく理解しません。

 私たちに問われているもの、

 罪という問題は、

 私たち日本人にとって、もっとも理解し難いテーマなのです。

 ですから、

 イエス・キリストの十字架の出来事の意味と内容とを知ることによって、

 初めて、私たちの本質的な性質というものが理解されるのです。

 自分を知るということが可能となるのです。

 ですから、キリストの教会で、くりかえしくりかえし、

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事の内容と意味とが解き明かされなければならないのです。

 だれしも、自分を疑ってみることなどしませんから。

 自分自身を客観的に見られるようになったとき・・・・初めて、

 それが信仰の始まりなのかもしれません。

 イエス・キリストの命・・血によって、

 すべての人間の犯した罪をあがない・・罪の代価を支払い、

 その出来事の内容と意味とを、

 そのイエス・キリストを信じることによって、

 人間は救済されるのです。


 「キリストは人としての性質をもって現われ、

 自分をいやしくし、死にまで従い、

 実に十字架の死にまで従われたのです。」

 (新約聖書・ピリピ人への手紙・2章8節・新改訳聖書)


 私たちに問われているもの、それは私たち自身のことなのです。

 今ある自分、さまざまに問題の中にある今の自分があるのは、

 それは運命と言われるようなものではなく、

 それを招いたのは自分自身なのですから。


北白川 スー

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Wrote up: 21 August 2009.