罪について語られない日本


 日本のキリスト教は、

 罪だ罪だと声を大きくして言わない・・・。

 しかし、聖書・バイブルは、

 人間を、罪の奴隷(どれい)だと語っている。

 意識しようがしまいが罪の奴隷なのだと。

 しかし多くの人は、私は罪など犯していないと言う・・・。

 キリストの福音、すなわち、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

 この罪について、深い深いつながりのある出来事であるにもかかわらず。


 「わたしたちは、この事を知っている。

 わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。

 それは、この罪のからだが滅び、

 わたしたちがもはや、

 罪の奴隷となることがないためである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章6節・口語訳聖書)


 聖書・バイブルが語る罪とは、どういうことなのか。

 私たち人間の精神性が、

 あまりにも神から遠いものになってしまったために、

 人間の考えること、欲すること、

 何かをしようとして計画すること、

 行動すること、

 言葉にすること、

 それらすべてが・・・・。

 道理に外れて、愚かで、けがれたものでしかないと・・・。

 強いて言えば、

 罪の毒に犯された精神は、

 罪の実しか生じないのだと・・・・。

 私たち人間にとって聞くにたえない、

 実に強烈で厳しい指摘なのです。

 人が罪を犯すのは、

 意識しようがしまいが。

 罪にたいして同意を与えているからなのです。

 自分がいま何をしているのか、どういう状態にあるのか、

 自分ではっきりと分かっていない・・・のだと。

 いや、分かっていても、

 何かと理屈をつけて美しく飾り立てもします。

 それは、なぜなのか・・・。

 それは、

 私たち人間の精神性が、

 あまりにも神から遠くはなれたものになってしまったためなのです。

 それどころか、私たち人間は、

 ” 神のすべての義 ”をも、

 はなはだしく、程度を超えて嫌い続けているのです。

 神の名さえ持ち出すことを嫌います。

 自分たちの都合の好い場合を除き・・・・。


 神が求めていることは、

 神の前で静まることであるのに。

 悪しき者は、海の荒い波のように静まることができないのです。


北白川 スー

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Wrote up on 26 December 2010.