日本の教会の特別な事情
日本のキリスト教の教会の特別な事情と書き出しましたが、
言いかえれば、共通している事情とでも言えばいいでしょうか。
自分の生き方にたいする肯定的な態度や言葉を期待して・・・、
人は教会にやってきます。
現代社会の人間関係の中で、
傷つき、また苦しんでいる人たちは、
自分の体面や名誉といったものが保てず・・・、
自分の生き方にたいする肯定的な言葉が欲しいのです。
教会なら、それを得られると思って・・・・。
実際、日本の教会では、
現代社会の病理に中で苦しみ傷ついた人たちにたいして、
甘く温情的なのです。
なぐさめの言葉や、はげましの言葉をかけることに重きを置いているのも事実なのです。
あなたは間違ってはいませんよ、正しいのですよ・・・・と。
日本という社会は、
名誉を重んじる社会です、恥について過剰に反応します。
名誉を失うことに人は、とても敏感なのです。
しかし、イエス・キリストは言います。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。
(新約聖書・マルコによる福音書・12章31節・新改訳聖書)
自分を愛するように、隣人を愛せよと。
しかし・・・・、
教会にやって来る人は、自分を愛してくれる人を求めて教会にやってくるのです。
とても人を愛することなどできません。
聖書・バイブルの基準からすれば、
人間関係における体面とか名誉とかいうものを、もっとも大切なものとしてとらえるなら、
聖書が伝えようとしているものから外れた、離れたものになるのです。
イエス・キリストは言います。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である ” 主 ” を愛せよ。」と・・・。
(新約聖書・マルコによる福音書・12章30節・新改訳聖書)
イエス・キリストは、私たちの罪をその身に負って、
罪人として、私たちの、神にたいする罪についての裁きを、
その身に受けてくださり、十字架にかかり処刑されたのです。
これが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
本来、被造物であるところの私たち人間が、
創造主なる神の裁きを受けなければならない立場にあるのですが・・・・、
取って食べれば死ぬから取って食べてはいけないと命じられていた善悪を判断する果実を食べたという出来事・・・・。
アダムが神に背いて以来、それに続く人類はことごとく罪を負って生まれてくるという・・・・。
この罪深さが、私たちの思いとなって言葉となって行為となって表にあらわれてくるのです。
それが現実の私たちの姿そのものなのです。
創造主なる神に背いたという大罪にたいする・・・。
その裁きから私たちを救うために、
イエス・キリストは、私たちに代わって神の裁きをその身に受けられたのです。
私たち人間には義はありません。
罪深いのは私たち人間なのです・・・・。
何が名誉で何が面目なのでしょうか・・・・・。
となり人を愛せないのに・・・・・。
人は自分を愛してくれる人を求めて教会にやってきます。
しかしイエス・キリストは、人を愛することを説くのです。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。
北白川 スー
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Wrote up: 26 April 2010.