いそがしく生活に追われて
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だれしも、自分の抱えている問題が解決されることを望んでいます。
進路や収入や職場や商売のこと、などなど。
人間関係や家族のことかもしれません。
常に、こころを悩ませているからです。
自分の望んでいる方向に事が進まないからです。
自分の望んでいる方向に事が進むようにと願っているはずです。
自分が抱えている、
混乱や不安や悩みや心配事から解放されることを願っているはずです。
しかし、現実は、事は自分の思うようには進まないものです。
毎日毎日、次から次へと、同じことの繰り返しのように、
忙しく生活に追われている私たちなのです。
健康で豊かな満たされた人生を望んでいるにもかかわらずにです。
しかし、自分の思うように、
自分の欲するようには、物事は進みません。
どうでしょうか、このように忙しく生活に追われていることに、
この慌ただしい生活こそが、
すでに問題なのだという問題意識を持っているでしょうか。
自分自身という姿を、客観的に注視していますか。
どうも、私たちは・立ち止まることを・静まることを、
どこかへ置き忘れてきたようです。
聖書は次のように語っています。
「あなたがたは立ち返って、
落ち着いているならば救われる、
穏やかにして信頼しているならば力を得る。」
(旧約聖書・イザヤ書・30章15節・口語訳聖書)
・・・立ち返って静かにすれば救われる・・・、
落ち着いて、信頼すれば力を得ると語っています。
誰に、何に・・・信頼するの。
聖書は、たえずまことの神に心を向けることを、
そして、静かに考えることを、
つまり、「神の霊に満たされ、神と交わること」の大切さを語っています。
神の霊って・・、神と交わるって・・・・。
忙しさに流されないで、
落ち着いた精神的に充実したひと時を持つということでしょうか。
「あなたが行われたすべての事を考え、
あなたのみ手のわざを思います。」
(新約聖書・詩篇・143篇5節・口語訳聖書)
それは、
これからの人生を自信をもって、
不安なく迷わず輝きながら生きて行くために、
自分をあらためて見つめなおすことを求めているのです。
自分の考え方ややり方に頼って、
つまり自分の判断がどうとか、
自分の得てきた知恵や経験に信頼して歩んでいくのではなく、
まことの神の存在を受け入れ、
まことの神が「ともにおられる」という前提で生きていくということを意味しています。
今ある悩みや問題を、自分ひとりで解決しようとするのではなく、
また、そればかりに気を配るのではなく、
自分の思いや判断に頼るのではなく、
自分をはるかにこえた存在に耳をかたむけて、
その存在とともに生きて行くということなのです。
それは、今まで、その存在が、してくださったことを、
心に思いおこすことなのです。
今まで忘れていたこと、見逃していたことを、
まことの神が自分の人生にかかわってくださっていたということをです。
神が、私に・・・・そんなばかな。
忙しい生活というものは、
自分を取りまく日常の雑音や、
一時的なものや、
目に見えるものに身体や気持ちを奪われているところから来ているではありませんか。
忙しい生活に、
自分の持てる時間の大部分を費やしてしまうには、
人生はあまりにも短いことに気づかなければならないでしょう。
「見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくのである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・4章18節・口語訳聖書)
まことの神に聞くということは、
まだ見ていないものの確かな証拠を見る目と言っていいでしょう。
それが信仰であるわけです。
「この世界が神の言葉によって造られたものであり。
したがって、
この世界のすべてのものは神が無から創造されたことを知るのである。」
(新約聖書・ヘブル人への手紙・11章3節・現代訳聖書)
自分を疑うこともせず、自分を信じて、
自分に素直に生きることがもてはやされ、
美徳とさえ言われている現代の日本です。
しかし、それが、
すべての不安や心配や混乱の原因なのかもしれません。
自分に信頼すれば、
自分の利得になるかどうかという観点で物事をとらえるならば、
それでは、人々のまとまりも一致はありません。
忙しさを作りだしているのは、自分自身なのかもしれないからです。
不安や混乱を生み出している原因は、自分なのです
忙しさと一致とは、相反しているものなのです。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るからだ。」
(旧約聖書・詩篇・62偏5節・新改訳聖書)
忙しい中で、立ち止まることは勇気を必要としますが、
気を静めることは難しいことかもしれませんが、
とりあえず、まずは立ち止まってまわりを見渡してみましょう。
あなたは、ひとりではありません。
まことの神とともにあることを忘れないでください。
神は、あなたに、語りかけられています。
心を静めて、聞き耳をたててみましょう。
ただ見逃しているだけなのです。
「さて、イエスは通りすがりに、
生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、
だれが罪を犯したからですか。
本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。・・」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・9章1〜3節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on August 30, 2016.