誰しも自分の生き方にたいして


 誰しも自分の生き方にたいして肯定的であってほしいものです。

 その通りだ、間違ってはいない・・・・と。

 しかし現実は、自分の生き方が正しいと思えばこそ、

 まわりとのきしみを生み出し、苦しんでいるのですから。

 だからキリスト教であっても、

 イエス・キリストであっても、

 自分の生き方にたいして肯定的であらなければならないと思うものです。

 しかし、この世界を造られた創造主なる神は、

 また私たち人間をも創造された神はそうではありません。

 神は、そのような人にたいして否定的な態度を取られます。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」・・と。

 (新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・参照)

 さらには、

 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」・・・と。

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・参照)

 キリスト教の基本的な考えは、

 すべての人は、

 だれひとりの例外もなく、

 罪に定められ、罪の下にあるのです。

 自分が弱く愚かでみにくい存在であると素直に認めるなら、

 なかなか認めることはプライドが許さないかもしれませんが、

 認めるなら、それは解放を意味していますし、

 自由を意味しています。

 楽になるのです。

 私たちは神によって罪に定められています。

 非常に混沌とした不安定な状態に置かれているのです。

 生まれながらに負っている罪がそうさせるのです。

 私たち人間の現実の姿がそうです。

 それには理由があるのです。

 キリスト教は、まず第一に、

 生まれながらに負っている罪深さについて、

 それを ” 原罪 ”(ゲンザイ)と言います。

 人間の始祖であるアダムが神に背いて、

 取って食べては死ぬといけないから取って食べるなと命じられていたにも係わらず取って食べたため・・・。

 禁断の木の実を食べたというエデンの園の出来事・・・・。

 その出来事に始まり、

 人間がどのようにして、

 罪に満ちた現実の人間の姿に追い込まれたかを・・・・。

 その教えを理解しなければ、

 福音についても、罪についても、救いについても理解することは難しいことでしょう。

 自分は正しいから救われたい・・・・ではなく。

 罪の下にあるから救われたい・・・・と。

 しかし、日本における現実はそうではありません。

 日本での多くの場合、

 人は教会に何を求めてやって来るのかと言えば、

 その人の生き方にたいする肯定的な励ましの言葉や態度といったものを求めて人は教会にやってきます。

 多くの人は、

 自分の生き方やものの考え方ややりかたが認められず評価されずに苦しみ傷ついているからです。

 自分は正しい、自分にたいする評価を得たいと・・・・。

 しかし。

 あなたは罪に定められている、

 あなたは罪の下にある・・・・。

 だから、悔い改めなさい・・・と言えば。

 自分の愚かさに気づく人と、そうでない人とがでてきます。

 だからこそ、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の解き明かしが、

 くりかえしくりかえし教会でメッセージされなければならないのです。

 しかしながら現実はそうではありません。

 罪についてさえ語られてはいません。

 自分が愚かで弱いからこそ、

 イエス・キリストと共に人生を歩む必要があるにもかかわらず。

 私たち人間は、神の創造の秩序の中に生きてこそ、

 その存在の意味が生まれてくるのです。

 私たち人間は、神の作品だからです。

 私たち人間は、神によって創造されたことを忘れてしまった愚かな存在なのです。

 だから、きたる時、神によって裁かれるのです。


 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、

 御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 08 January 2011.