
キリスト教入門・・神を認識するただ一つの方法

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 キリスト教入門のところで、
 キリストの福音が語られず、
 まったく別な内容が語られれば、
 ”神の怒りの啓示 ”としてのイエス・キリストの十字架の出来事は福音でなくなってしまうのです。
 神の怒りの啓示としてのイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事によって神を語らず、
 自然界の秩序立った仕組みや不思議に神を説明しようとするなら・・・。
 植物や野生動物の生態や、
 地学的な壮大な地球のパノラマによって神を語ろうとするなら、
 その神は人間的な一般的な見識が作り出した神ならぬ神の他のなにものでないのです。
 聖書・バイブルが語る神とは、
 キリストの福音こそが、
 イエス・キリストの十字架の出来事こそが、
 神の全能の力そのものだと語っているからです。
 福音を恥じなければならないのは、
 福音に直面しているけれど、
 福音に出会い、避けることができないにもかかわらず、
 耳を傾けようとはしない私たち日本人なのかもしれません。
 「 わたしは福音を恥としない。
 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
 信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
 福音には、神の義が啓示されていますが、
 それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
 『 正しい者は信仰によって生きる 』と書いてあるとおりです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)
 つまり、”神の全能の救いのわざ ”としての福音は、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事において、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事において、
 神のひとり子イエス・キリストが、
 すべての人の罪をその身に負い、
 身代わりとなって、
 罪人として十字架にかけられ死刑となった・・・。
 創造主なる神が、
 被造物としてのすべての人間に代えて、
 ご自身のひとり子イエスの上に、
 怒りの刃を下された・・・出来事なのです。
 この出来事こそ、被造物としての人間にたいする、
 創造主なる神の愛そのものなのです。
 このようにしてこそ、私たちの罪はつぐなわれるのです。
 このイエス・キリストの十字架の出来事は、
 私たちの、どのような状態や状況や場合であっても、
 神を知らず、恐れず、敬うことさえしない、
 人間にたいする、神による、有罪の判断を語っているからです。
 神のひとり子・イエス・キリストの出来事によって示された、
 神の怒りの啓示こそ、
 すべての人間にたいする神の裁きの判決そのものなのです。
 「・・・それは、すべての人の口がふさがれて、
 全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章19節・新共同訳聖書)
 「 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・新共同訳聖書)
 神の怒りの啓示を語らない神や啓示や福音があるとすれば、
 それは、神ならぬ神であり、
 神の啓示ならぬ啓示であり、
 福音ではない福音なのです。
 イエス・キリストの十字架の出来事に神を語ることによってこそ、
 神の全能の救いを明らかにすることができるのです。
 私たちの救いとは、
 まぎれもなく、神の怒りの裁きからの救いそのものなのです。
 キリスト教の信仰とは、
 キリストの福音にたいする信頼のみが信仰なのです。
 「 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、
 あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、
 自分の身に積んでいるのである。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章5節・口語訳聖書)
 キリストの十字架の死こそ、
 私たちにたいする、
 神の怒りの啓示そのものなのです。
 この、神の怒りの啓示こそ、
 唯一の神認識の出来事なのです。
 神を認識するただ一つの道なのです。
北白川 スー
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Wrote up on  October 13, 2012.