自分の気持ちに正直に生きることが・・


 自分の気持ちに正直に生きることが、何か美しいもののように、

 すぐれた考え方のようにもてはやされています。

 しかし、

 キリストの福音が、その中心に、その基礎に、すべてのいしずえに、影響力を持っている形で作用していなければ・・・、

 自分の感情に従って、忠実に生きるあまり、自分のありのままの姿が見えなくなるのです。

 感情のままに反応する、静まることも、ひと呼吸おくこともしないで、

 今しようとしている行為が招くであろう結果を前もって考えもしないで行為行動に走ってしまう。

 自分の思う通りに事が運ばない苛立たしさは、

 結果は、それとは知らず、常に大小をとわず破壊的なものを招くのです・・・。


 人は、ときとして、純粋な心の持ち主しか聞こえないという幻想すら夢見ます・・。


 人は、なぜなのだろう。

 人をゆるすことも、人間同士のゆるし合いも、人との和解も・・・、

 人間同士の秩序を保つための良識や行動のしかたさえ、

 なぜ、人間として当然なすべき礼節さえ見失ってしまうのか。

 なぜ、自分のことばかりで他の人のことも考えなくなるのか。

 しかし、

 起きてくるすべての結果は、

 自分で刈り取らなくてはならない。

 自分自身のせいなのだから。


 イエス・キリストは言われた。

 何ごとも、利己心や、自己中心や、虚栄や、党派心からするのではなく、

 へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい・・・・と。

 自分のことだけでなく他人のことをかえりみなさい・・・と。


 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 (新約聖書・ピリピの信徒へのパウロの手紙・2章6〜8節・新共同訳聖書)


 イエスは、まことの人として、しもべの形をとり、

 自分を低くして、人々に仕えるために来られた・・・・。


 どのような人であっても、

 ありのままの自分の姿は見えないという前提に立って、

 その人の前に、

 その人の本当の姿を映し出す鏡・カガミを置くことによって、

 その人のみせかけの姿を、はっきりと示し出すことをしなければ、

 自分のありのままの姿など分からないものです。

 その鏡こそ、イエス・キリストの十字架の出来事、

 すなわち福音なのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

 ひとりの人が、すべての人の罪を、その身に背負い、

 苦しめられ、はずかしめられ、ののしられ、むち打たれ・・、

 十字架にかけられ罪人として処刑されたという出来事なのです。


 この十字架の出来事は、

 私たちはひとしく生まれながら罪深く、

 苦悩のうちに生きていることの意味を明らかにし、

 そこからの救いをも明らかにするものなのです。


 キリスト教は、決してご利益信仰ではありません。

 自分の望みをかなえてくださるのがイエス・キリストへの信仰ではありません。

 どのような苦境の中にあっても、それには意味があるのです。

 自分の望み通りに無条件に満たしてくださるのが神ではありません。

 あくまで神の栄光のもとで、主権は神にあります。

 それは、神のわざが現われるためなのです。

 私たち人間は、神の前でひれふす存在なのですから。


北白川 スー

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Wrote up: 10 December 2008.