人間の罪と神の義・正しさ



神の正しさと人間の罪深さというテーマは、
キリスト教の信仰の中心的なテーマに違いないのですが・・・。

こと日本の社会は、
あまりにも自分の義というものが問題にされることの多い社会です。
それがすべてと言って言いすぎではないかもしれません。

何ごとにおいても、自分は正しいという前提に立って、
自分自身の中に力や意味を見出そうとします。

自分は役立っているという肯定的な評価を得られないとき、
人とは義なる存在だという前提に立てば、
自分の存在の意味が問われるわけで、
結果として、苦しみが襲ってきます・・。

社会や地域社会、企業や職場や学園や家庭や・・それらの中にあって、
自分の生き方にたいして評価されないことへの苦しみを訴える人の多さに現われています。

キリスト教において、根本的で、核心的で、
その中心的な、すべてと言っていい出来事、それが、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。

キリスト・イエスは、
十字架の上で、
私たちの罪をその身に負い、
私たちに代わって、
罪人として、
神の怒りの裁きを受けられた・・・という出来事です。

この出来事を信じる者は、
罪は赦され、
神の前で正しい者として立つことができるのです。
神の義の出来事、神の愛の出来事とも言われます。

キリスト・イエスの十字架による贖罪という出来事を、
自分の事として受け入れ、
つまり、自分の罪を認めること、
そして、悔い改めることによって赦しが与えられ、
神の義、神の愛が実現されるということです。

まずは、人間の本性的な性質を、
生まれながらに負っている罪深さという性質を理解しなければなりません。

ひとりの例外もなく、神にたいして負い目を負っているのです。
この負い目が、つまり罪深い性質が、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

考えなければならないのは、
自分の義ではなく、自分の罪について・・・なのです。
自分の罪深さを理解しなくては、
悔い改めることもできません。

日本のキリスト教の教会に救いを求めてやってくる人は、
現実の暮らしの中で、
自分の生き方や、働きが評価されず、
自分の存在の意味に苦しんでいる人が多く見られます。

キリスト教の教会なら、
自分の生き方にたいして肯定的な言質や励ましが受けられると。
自分の義を求めて教会にやってくると言っていいでしょう。

聖書・バイブルは、日本の社会の現実を認めません。
さも豊かに物で満ちあふれていても、心の中は貧しい日本です。
だからと言って、その社会に苦しんでいる人を認めることもできません。

私たちは、より良き暮らしができるように、
どのようにすればいいのか、いつも願い、探り求めています。

しかし、聖書・バイブルが求めているのは、
被造物として、創造主なる神への真の渇きを見出すことなのです。
なぜなら、生ける水を与えてくださるのはキリストだからです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
・「正しい者は信仰によって生きる」・と書いてあるとおりです。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、
神は天から怒りを現されます。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜18節・新共同訳聖書)

物質的な豊かさは罪の結果なのです。
罪の現在進行形は、さまざまなものにたいする欲望なのです。
現在の豊かさは、決して神の恵みではありません。
人間が罪によって築き上げてきたものなのです。

私たちの日常は、
あまりにもバタバタし過ぎているのかもしれません。
自分自身を知るには、静かにすることではないでしょうか。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、
全地にあがめられる。」

(旧約聖書・詩篇・46偏10節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on April 08, 2014.