悩み多き人間とキリストの十字架


 私たちは、さまざまな問題を抱えています。

 経済、金銭、健康、人間関係、学業、・・・。

 仕事、家事、学校、家庭、家族・・・。

 いつも心から離れず頭を悩ませています。

 心をわずらわせているのです。

 だから、そこから解放されたい。

 願いや望みを実現したい。

 キリスト教的に言えば、勝利と平安が欲しい・・・。

 さて、キリスト教の基本的なテーマは、

 ”罪の赦し ”(つみのゆるし)であり、

 ”新生 ”新しく生まれ変わることであり、

 ”神との和解 ”なのです。

 では、それらのキリスト教的テーマと、

 先に書き出しましたさまざまな欲求との関係はどうなのでしょうか。

 教会に行っているけれど初めて聞くという人もいることでしょう。

 キリスト教の信仰を持てば、

 金銭的に豊かになり、病気はなおり、

 人間関係にわずらわされなくなるのでしょうか。 

 そうならば、キリスト教の信仰は、

 ご利益信仰そのものです。

 キリスト教が言わんとするのは、

 神との和解であり、それによって罪は赦され、

 まったく新しい人生が始まる・・・・と言うことです。

 それが、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事であり、

 まぎれもなく神との和解の出来事なのです。

 その出来事の内容と意味とを信じることによって、

 神との和解、罪の赦し、新生・・が完成するのです。


 「 もし敵であった私たちが、

 御子の死によって神と和解させられたのなら、

 和解させられた私たちが、

 彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 そればかりでなく、

 私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、

 私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、

 罪によって死がはいり、

 こうして死が全人類に広がったのと同様に、

 ――それというのも全人類が罪を犯したからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章10〜12節・新解約聖書)


 神との和解なくして、私たちの救いはないとするなら、

 私たち人間は、常に神に背いているということになります。

 この世界を造られた創造主なる神によって造られた、

 被造物としての人間にたいする、

 神の恵みとしての、

 神の被造物を思う愛情、あわれみ・・・として、

 イエス・キリストの生と死と復活・・・。

 神のひとり子・救い主イエス・キリストがこの世界に生まれ来たということは、

 この世界は、神の目から見て堕落していることをあらわしているわけです。

 私たち人間が堕落しているのは、

 社会の構造やシステムが悪いために、

 人間は、それらに影響されて悪くなっているのではなく。

 人間は常に罪深いため、

 生まれながらに罪深さという性質を持っているため、

 その性質が、

 あらゆる行為のみなもととして、原因として、

 思いとなって、言葉となって、行為行動となって、

 神にたいして、人にたいして、自分にたいして罪を犯しているのです。

 人間の始祖が、創造主なる神にたいして背いた結果、

 それに続くすべての人間が罪深い存在となったとしたら、

 その神との和解しか、

 罪深さから抜け出す方法は他にありません。

 新しく生まれ変わらなければ、

 神の国を、つまり神の支配を見ることはできないのです。

 現実の私たちを見てみますと、

 私たち人間は常に悩みの中に存在していると言っていいでしょう。

 しかし、常に、いつも、見落としているものがあるのです。

 もっとも身近にあるもの、

 いつも、とらえることを忘れているもの、

 私たちは目的を持って創造されたということ、

 創造主なる神へ栄光を誉れを帰すために・・・、

 そのために私たち人間は創造されたのです。

 つまり、生の中心への方向転換を見落としている・・・。

 それが罪の本質なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 09 March 2011.