聖書は、グローバル・スタンダード



聖書・バイブルは、間違いなくグローバル・スタンダードです。
世界標準なのです。
教会も、グローバル・スタンダードでなければなりません。
決して、非日常に埋もれていてはいけないのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。
わたしたちはこう考えている。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・口語訳聖書)

しかし、日本の教会の事情は特別なようです。
日本は特別だからと言って聖書・バイブルから外れることは許されません。

創造主なる神と、被造物としての人間との関係において・・・。
この世界を造られた創造主なる神を信じるという行為が、
すなわちキリスト教の信仰であるわけです。
言葉の違いや肌の色の違いなどは問題ではありません。

しかし、日本の事情は、そうではないようです。

現代社会の病理に傷ついた人たちを受け入れる受け皿としての役割を教会は受け持つものだと、
一般社会がそのように決め込んでいるようです。

社会からはみ出してしまった人たちが教会に居場所を求めてやって来る・・・、
自分の思い通りに事が運ばないいらだちからか、
自分の生き方にたいして肯定的なはげましの言葉や態度を求めて・・・。
教会なら受けとめてくれると思って・・・。
私は正しい・・・・と。

たしかに聖書は、書いています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・11章28〜30節・新改訳聖書)

ここで語られる、”疲れた人・重荷を負っている人”とは、どのような意味なのでしょうか。
”キリストのくびき ”や、”キリストの荷 ”とはどのような意味なのでしょうか。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。

まぎれもなく、神との和解の出来事です。
この出来事は、
だれひとりの例外もなく神の前では罪人だということをあらわしています。

ここで言われている、疲れた人、重荷を負っている人とは、
すべての人たちの中の特別な少数の人たちのことを言っているのでしょうか。

聖書・バイブルは、だれ一人の例外もなく、
すべての人たちが、疲れた人、重荷を負っている人であると言っているのです。
そうでなければ、キリストがすべての人の罪をその身に負い、
十字架で死なれる理由は意味を失います。
メシア・救い主としてこの世界に生まれ来る必要などないのです。
すべての人は罪深い性質を帯びていることを・・・。
すべての人間は、神の裁きが待っている存在なのです。

生まれながらに負っている罪深い性質が、
思いとなり言葉となり行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているのです。
経済であれ教育であれ医療であれ・・・。
信仰においてもそうかもしれません。
それが現実の私たちの姿なのです。

だから、教会でメッセージする内容は、
私たちは、神の道に立ち返らなければならないと。

私たちは進むべき道を間違えています。
その間違いを正すのが聖書・バイブルの言葉、
つまり、神の言葉なのです。

神の道から外れていることに気付いたとき・・・。
間違っていることを気付いたとき・・・。
向を変えればいいのです。


北白川 スー

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Wrote up on April 25, 2013.