キリスト教への間違ったイメージ



キリスト教の信仰は、心がけが良いとか、温厚で、ひたむきな人たちが持つものだと・・・。
善良で人間倫理に長けた人たちが持っているもののように思い込んでいる人が実に多い。

または、クリスチャンという人物は、
心の内に、何かゆずれないものを持っていて、
いつも冷静で計算高くて好かないと評されることがある。

しかし、”罪人たちの共同体がキリスト教会”なのだと言えば、
おどろかれるかもしれない。
罪人たちの・・・・。
クリスチャンの方でも、そうではないと反論されるかもしれません。
私は、罪など犯してはいないと・・・。

聖書・バイブルは、善人は一人もいないと語っています。
「それは、次のように書いてあるとおりです。
・・義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新改訳聖書)

キリスト教の信仰は、
決して善人のための信仰ではなく、罪人のための信仰なのです。
ひとりの例外もなく、すべての人は生まれながらに罪深い存在なのです。
創造主なる神に背き、地に落とされ、
神に背き続け、地をさ迷い歩く人間たち・・。
それが私たち人間の現実の姿なのです。

創造主なる神に背いた罪人たちには、神の裁きが待っています。
その裁きからの救いこそが、
キリスト教の言うところの救いなのです。

キリスト・イエスは、
まぎれもなくすべての罪人のために十字架に死なれたのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
キリストがすべての罪人たちに代わって神の裁きを受けられたという出来事、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による、
贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、

自分の事として承認し受け入れた者がクリスチャンということになります。

クリスチャンという人たちは、なぜに謙虚で温厚に見えるのか・・。
自分の思いや言葉や行為や行動といったものが、
いかにあやういものなのだという自覚から、
常にブレーキがかかっているから、
安全運転を心がけているから、そのように見えるのかもしれません。

決して善良な人間たちだけがクリスチャンになるのではありません。
罪深い存在だから、信頼できる存在を信仰の対象としなければ、
キリストへの信仰を持たなければならないのです。
すべての人たちが善良ならば、
キリスト・イエスは十字架に死なれる必要など生れては来ません。

目立ってパワフルで活動的なクリスチャンもいますが。
キリスト教の信仰は、心がけが良いとか、温厚で、ひたむきな人たちが持つものだとか・・・。
善良で人間倫理に長けた人たちが持つことができるとか・・。

キリスト教の信仰にたいして、間違ったイメージを持たれているのは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの福音が広く一般に説かれ解き明かされていない証拠なのです。


北白川 スー

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Wrote up on May 30, 2014.