神を神と思わない人間たち



あわただしく流されている暮らしの中で、
あらたまって神を考えることのない私たち。
その神を、私たちの日常の中で考えるとき、
何かその場所がもっともあてがうにふさわしい、ぴったりした場所と考え、
私たちは、神を人間の手によって作られ、また備えられたところにすえつつ、
私たちが最高の地位だと考えるところに神を祭りあげ、
私たち自身の要求を、その神に突き付け、
具体的に実現したいと願い求めようとします。
当たり前のように、その神に、私たちの欲求を、
さまざまな要求を突き付け、成果を引き出そうとします。
私たちは、神を信じていると言いながら、
実は、神の義ではなく、自分自身の義を、
自分自身の世界を作り上げようとしているのです。
神にたいして信心深い態度をとっているよう見えても、
実は、信仰しているのは自分自身なのです。
いちばん大切なのは、何を差し置いても自分自身なのですから。
つまり、私たちと同じ時間に、同じ空間に、同じ生活環境に、
同じ世界に神を引きずり降ろしているのです。
神の名を利用して、自分自身のことを考えているにすぎないのです。
自分自身の要求に調子を合わせてくれる神こそが、
私たちの神そのものなのです。
つまり、私がいるところに神もいなければならないのです。
私たちは、神を知っていると言いながら、
神を神としてあがめず、
自分自身のために、神ならぬ神に仕えているのです。
聖書・バイブルは、そのような私たちに語っています。

 「 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、
神の怒りが天から啓示されているからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章18節・新改訳聖書)

神にたいして、私たちが本来的にとるべき位置というものを取り違え、
神が私たちにたいしてとられる地位というものを、
私たちみずからが、私たちにたいしてとったため、
神は天から怒りを示されたのです。
神を神と思わない、私たちの不敬虔というものが、
神をおそれうやまわないという、私たちの姿勢が、
神を神の怒りへと導いてしまったのです。
天から啓示された神の怒りとは、
神の怒りの出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
このイエスの十字架の出来事は、いったい何を意味しているのでしょうか。
神の怒りとは、私たちにたいして下された神の怒りの審判なのです。
私たちに神の審判が下されたということは、
神の怒りの判決が下ったということは、
私たちが、この審判を受け入れない限り、
私たちの救いはないということなのです。
神を神と思わない不敬虔の者のために、
この怒りの審判を受け入れ、
神の怒りの判決を受け入れ、
私たちの神にたいする不義、不敬虔という罪を、
わが身に負い、十字架によって死刑となった方がおられるのです。

 「 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、
不信心な者のために死んでくださった。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章6節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルは、
神の怒りは、私たちに直接には下されなかったことを伝えています。
神の怒りは、私たちに代えて、
神のひとり子イエス・キリストの上に下されたのです。
神の作品としての、被造物としての人間への、
創造主なる神の、作者としての愛を示されたのです。
私たちを創られた神の愛そのものなのです。
イエス・キリストの十字架による死という出来事を、
そのキリストを信じる信仰によって、
神にあって正しい者とされた者のみが、
神の怒りから救い出されるのです。

 「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)

しかし、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、
感謝もしない私たちのかたくなさのために、
私たちは、神の愛を知ることがなく、
イエス・キリストの十字架の出来事さえ見えないのです。


北白川 スー

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Wrote up on November 08 , 2012.