キリスト教のビジョン



キリスト教のビジョンとか目標とか目的というものが、
”すべての人の救い”にあるならば・・・。

「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

キリスト教の信仰から、
余分なものや本質的ではないものを除いていけば、
最後に残るもの、
それが、”すべての人の救い”なのです。

肌の色の違いや、言葉の違いや、文化の違いや、生活習慣の違いや、貧富の差や、
男女の区別なく、 すべての人に救いをもたらすものがキリストの福音ならば。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそ、
福音の内容そのものなのです。
キリスト教のビジョンと言うよりも、
”キリストのビジョン ”と言ったほうが正しいかもしれません。
すべての人の救いという事柄は、
特定の人にたいするビジョンではなく、
すべての人たちにかかわるビジョンだからなのです。
すべての人たちが、その対象ということになります。
だから、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事こそ福音そのものなのです。
なぜ、罪を認めないキリストが、私たちのために十字架にかけられ、その命を、ささげられたのでしょうか・・・・。
それは、神との和解の出来事と言っていいでしょう。
創造主なる神の私たちにたいする、
究極的な態度の決定ということなります。
それを受け入れるか受け入れないかという判断を私たちに求めるものなのです。
イエス・キリストが救い主としてこの世界に来られたということは、
この世界が、人間の知恵や力ではどうしようもないほど堕落していることをあらわしているのです。
最初の人間アダムが神に背いてから、
アダムに続くすべての人間は罪深い性質を負ってこの世界に生まれてくることになったのです。
神への背きの罪には、神の裁きが待ちかえています。
来るべき時、必ずやってくる、神の怒りの裁きの日。
生きている人も、かつて生きていた人も神の裁きの座に立たなければなりません。
私たちは何から救われなければならないのか・・・。
これこそ、もっともキリスト教の信仰を成り立たせる上で最も大切な働きをするテーマとなるです。
神の怒りの裁きから救われなければならない・・・・ということです。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
神が、
ご自身のひとり子・イエス・キリストの生と死と復活において、
私たちに備えてくださった救いの出来事なのです。
神との和解がなければ、私たちは裁かれます。
私たちに代わって、キリストがその命をささげることによって、
神との和解を成しとげられたのです。
キリストへの信仰を持つということは、
すべての人のために、
すべての人に代わって、
キリストが十字架にその命をささげられた、
神との和解の出来事を信じる信仰によって、
キリストへの信仰を通して、
私たちの罪は赦され、罪から解き放たれ、
神の怒りの裁きの座に立たされたとき、
神の前に正しい者として立つことができるのです。
救いとは、神との和解が不可欠なものなのです。

私たちは、一人で生きているのではありません。
生まれたときから神と共に歩んでいるのです。
しかし、それとは気付かずに日々を過ごしているだけなのです。
それこそ神にたいする大きな罪と言えます。
この世界と、私たち人間をも創造された神と共に歩んでいる人生を見い出せたなら、
神への信頼の人生が再び始まるのです。


北白川 スー

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Wrote up on December 03, 2012.