何からの救いなのか・究極的な救い


 キリスト教の教会のまわりに住んでいる地域社会の人たちは、

 いったい、教会が何の目的のためにそこに建っているのか分かっているのだろうか。

 おおかたの人たちは、まず理解していないと見て正しいだろう。

 教会自身も、それを知らせていない責任が、あるかもしれない。


 「 この方以外には、だれによっても救いはありません。

 世界中でこの御名のほかには、

 私たちが救われるべき名としては、

 どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 (新約聖書・使途の働き・4章12節・新改訳聖書)


 イエスが救い主だと、つまりメシア・キリストだと聖書は物語っています。

 では、何からの救いなのでしょうか・・・・・。


 「 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。

 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・7章24節・新共同訳聖書)


 私たちが「救い」という言葉から思い浮かぶのは、

 苦難や災難や困難や・・・・、

 病気や飢えや貧しさや・・・・・、

 毎日を過ごしていくためのさまざまな困り事からの救い出されること、解放されることではないでしょうか。

 しかし聖書が語る救いとは・・・・・、

 そのような、日常を維持していくための困難からの救いではなく、

 人間が経験しうる最大のものを越える・・・、

 想像を絶する・・・・・、

 いまだかつて見たことも聞いたこともない、

 じつに恐ろしい、とてつもなく大きな、究極的な苦難が、

 私たち人間を待ちうけているのです。

 それは・・・・・、

 やがて来る、必ず来る、” 神の怒り ” の日・・・・・、

 人間にたいする神の怒りと裁きの日なのです。

 このテーマも教会が教会をとり巻く人たちに解き明かさなければならない、重要かつ大切なテーマなのです。

 この世界を造られた創造主なる神は、

 私たち人間をも造られたわけですが・・・・、

 もとはとても素晴らしい存在として造られたのですが、

 しかし、最初の人間であるアダムが創造主なる神に背いたため・・・・、

 それが原因で、アダムに続く私たち人間は、

 罪深い性質を持って生まれてくることになったのです。

 その罪深い性質が、現実の罪となってあらわれているのです。

 現実の・・・私たち人間の姿そのものなのです。

 素晴らしいものとして、神は目的を持って人間を創造されたのですが、

 目的をもって・・・・・。

 しかし、その人間が父なる神の意志に背いたものだから・・・・・、

 当然のこととして裁きを受け・・報いを受けなければならないわけです。

 神のひとり子イエス・キリストは救い主としてこの世界に来られたわけですが・・・・・、

 何のための救い主かと言えば、

 イエス・キリストこそ、やがて来る神の怒りから、

 私たちを救ってくださる救い主なのです。

 やがて来る、必ずや来る、神の怒りと裁き・・・・・・。

 言い換えれば、

 私たちは ” 神の怒りから救われなければならない ” のです。

 ところが救ってくださるのは、神ご自身なのです。

 罪深い私たちへの判決は、当然のこととして有罪です。

 イノセントではなくギルティーです。

 私たちには救いに必要な手段も力はありません。

 しかし、命をもって、身代わりとしてその罪の代価を支払ってくださる方がおられるとしたら・・・・・。

 神のひとり子イエス・キリストが、

 十字架にかけられ死刑となり、葬られ、

 三日の後に死人のうちから復活したという出来事こそ・・・・。

 その出来事を信じる信仰によって、

 救いに入れるとしたら・・・・・・・。


   「 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、

 自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、

 あなたは救われる。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章9節・口語訳聖書)


 私たちは目先の困難からの救いを、

 救いとして求めるものです。

 しかし聖書は、もっと根本的な事柄からの救いを語るのです。

 その事柄こそが、私たちのすべての思いや言葉や行為に影響を与えているのですから。


北白川 スー

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Wrote up: 18 October 2009.