救いへの第1歩は・・
自分は、少なくとも善良な人間だと思う・・・。
自分は正しい、自分のやり方や考え方は、
少なくとも自分の良心や良識に従っていると考えている・・・。
善良な市民として生きてきた、
少なくとも良心や良識に従って生きてきたと思っている。
でも、ときどき間違いや過ちを犯すけれど・・・。
しかし、現代社会は混乱と悪い環境に満ちている、
多くの人が悪い社会環境のせいで道を踏み外している、悲しむべきことだ・・・。
環境を良くするためにも、もっと良心を働かせるべきだ・・・。
おおむね、多くの人はこのように考えているはずです。
この考え方の根底に流れているものは、
人間はもともと善であって、人は社会のせいでダメになる、
人は悪い環境のせいで道を誤るのだという考えです。
そして、人間の内には、限りない可能性があって、
その心に、その精神性に訴えれば世の中は必ず良くなるのだと。
人間として、自分の可能性をかぎりなく活かしきっていく生き方こそ、
未来を明るくし、希望ある人生を築いていくことができるのだと・・・・・。
だからキリスト教が言うところの ”救い ”など必要としないのだ・・。
だから、宗教など必要とはしません・・・。
しかし、現実の人間の姿をよく見れば、
必ずしもそうとは言えないかもしれない。
見方を変えれば、
人間とは、どうしょうもなくみにくく罪深く、罪人だと・・・。
ドラマや小説で取り上げられるテーマは、常に ”悪 ”なのだから・・・。
聖書・バイブルでは、
人間が、どのようにして苦境に追い込まれたかを、
人間の苦境が何であるかをくわしく明らかにしています。
なぜ人間ひとりびとりが罪深いのか・・・。
それを”原罪 ”と言います。
すべての人が生まれながらに背負っている罪深さのことです。
ですから、私たちがときどき罪を犯すから罪人なのではなく、
つねに罪深いから、罪を犯すのだと。
罪とは知らず罪を犯している場合もあることでしょう。
キリスト教への第1歩は、
いや、救いへの第1歩は・・・、
まず自分の罪深さを気付くこと・・、
自分が罪人だと、罪深い存在だと認めることから始まります。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」
「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・7章15・20・21・24節・新共同訳聖書)
そして、”生まれ変わる ”ことです。
それが ”救い ”なのです。
「イエスは言われた。『はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。』」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)
新しく生まれるとは、
罪人であることを認め、
罪の赦しを切に願うこと、
そして、十字架にかけられすべての人の罪を背負って死なれたイエスを、
イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、
自分の人生に迎え入れることなのです。
北白川 スー
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Wrote up: 16 November 2008.