信仰は正しい人のためにではなく



キリスト教の信仰は、
清く正しい人のために、
善良な人のために用意されていると主張する人は多い・・・。
また、そのように思いこんでいる人は多い・・・。

しかし、イエス・キリストは聖書・バイブルの中で言っている。

「イエスはこれを聞いて言われた。
・・医者を必要とするのは、
丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである。・・」

(新約聖書・マルコによる福音書・2章17節・新共同訳聖書)

この日本では、善良、善人だからこそ救われなければならないと主張する人は多いものです。

聖書・バイブルは、
救い主・キリストがこの世界に来られた理由は、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて、
悔い改めさせるために来たと言っているのです。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
ですから、キリストが悔い改めを求めているのは、
ある特定の人たちのことではなく、
すべての人がその対象だということです。

すべての人は病んでいるとキリストは言っているわけです。
もともと善なる存在として生まれてきた者が、
社会の環境の悪さや、
複雑な人間関係が人を病ませたのではありません。
最初の人間アダムが、創造主なる神に背き、
取って食べると死ぬといけないから取って食べてはならないと命じられていた禁断の果実を取って食べたため・・・・。
アダムが神に背いて禁断の果実を食べたというエデンの園の出来事にその原因があるのです。

人間の罪とは何であるかを言っているのです。
神への背きの罪が、すべての原因なのです。
すべての人の罪深さの原因なのです。
私たちは、生まれたときから、
神への背きの罪を負って生まれてきます。
それが生まれながらに負っている罪深さという性質なのです。
それを ”原罪・ゲンザイ ”と言います。
この原罪が、思いとなり言葉となり行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、
神にたいして罪を犯し続けているのです。
すべての人は罪に支配されているのです。
それが現実の私たちの姿なのです。
問題の多い見通しの立たない混沌とした私たちの姿なのです。

「次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)

クリスチャンといえども罪人です。
しかし、悔い改めて回心した人なのです。
悔い改めて回心したとは、
それまでの自分から新しい自分へと生まれ変わった人なのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新改訳聖書)

自分を信じて生きていた自分から、
キリストに聞き従う人生へと方向転換した人たちなのです。

神の怒りの裁きのとき、
永遠の命へ移されることを約束された人間なのです。

しかし、罪の世界に生きている以上、
常に罪への誘惑はついてまわります。

「イエスは答えて言われた。
・・はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない。・・
ニコデモは言った。
・・年をとった者が、どうして生まれることができましょう。
もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。・・
イエスはお答えになった。
・・はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、
神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。
霊から生まれたものは霊である。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3〜6節・新共同訳聖書)

悔い改めず回心しない人はどうなるのか・・・。
待っているのは永遠に続く苦しみです。


北白川 スー

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Wrote up on October 15, 2013.