なぜキリストなのか、なぜ十字架なのか。


 キリストとは、メシアであり救い主のことなのです。

 救い主イエス・キリストがこの世界に生まれたということは、

 この世界が救い主を必要としていることをあらわしています。

 現実の私たちの姿や社会を見れば、

 そこには人間同士のいがみ合いや、混乱や悲しみや苦しみや憎しみに満ち満ちていることを見てとれます。

 救い主として、神のひとり子イエス・キリストがこの世界に生まれたということは、

 この世界を造られた神の目から見て、この世界が堕落していることをあらわしているわけです。

 私たち人間が、混乱や怒りや苦しみや悲しみや痛みなどの中から、

 逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、

 救い主・救世主としてのイエス・キリストが、

 この世界にやって来る必要などなかったわけです。


 私たちの、混乱した姿、苦しみ怒りに満ちた姿、

 痛み悲しみに満ちている姿には・・・・、

 そのような状態を引き起こしているには原因があります。


 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

 誰がそれを知りえようか。」

 (旧約聖書・エレミヤ書・17章9節・新共同訳聖書)

 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。

 おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」

 (旧約聖書・エレミヤ書・17章10節・口語訳聖書)


 社会の構造や、まわりの人たちが悪いのではなく、

 私たちの具体的な行為や行動といったものよりも、

 さらに根の深いところにあるもの・・・・・。

 私たちが生まれながらに負っている性質・・・・、

 本性的な、罪深さというもの・・・。

 それを「原罪・ゲンザイ」と言います。

 問題の多い私たちの姿というものは、原罪が表にあらわれた姿そのものなのです。

 すべての人々の、あらゆる行為の原因が原罪なのです。

 私たちがときどき罪を犯すから罪深いのではなく、

 常に罪深いから罪を犯してしまうのです。

 気づかないまま同じ過ちを犯してしまうのです。

 その罪深さから解き放つものこそが、

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。

 私たちのすべての罪をその身に負い、

 罪人として十字架により処刑され、

 命をささげることによって、

 私たちの罪をつぐなわれたという出来事・・・・。

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事は、

 ひとりの人がすべての人のために死んだということをあらわしているわけです。

 人間は、だれひとりの例外もなく、神の前では罪人なのです。

 聖書が問題としていることは・・・・・、

 基本的に私たち人間の性質が問われているということなのです。

 私たち自身に問題がある以上・・・・、

 イエス・キリストに聞き従うことによって、

 道を踏み外さず生きていけることになるわけです。

 ” 信じて従う・・・・ ”。

 しかし、信仰とは、

 くりかえしくりかえし、捜し求めなければならないものなのかもしれません。

 私たちが罪深いがゆえに。


 「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。

 それだから、自分のからだをもって、

 神の栄光をあらわしなさい。」

 (新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・6章20節・口語訳聖書) 


北白川 スー

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Wrote up: 18 August 2009.