イエス・キリストは、救い主であると共に裁き主である


 人間の人生には、もっと大事なことがある。

 多くの人は、そのことに気づかず人生の終わりをむかえる。

 人は、

 他人のみにくさが見えて、愚痴を言っているわりには、

 本人は、気づいてはいない。


 「 そしてイエスは、

 御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、

 民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、

 わたしたちにお命じになりました。」

 (新約聖書・使徒言行録・使途の働き・10章42節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストは、メシア・救い主であることは知られているだろう。

 しかし、

 救い主であると共に裁き主であることを忘れてはいないか。


 「 なぜなら、わたしたちは皆、

 キリストの裁きの座の前に立ち、

 善であれ悪であれ、

 めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、

 報いを受けねばならないからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)


 自分自身のことが少しでも見える人なら、

 少しは自分の心を正すための努力はするだろう。

 しかし、人間をとりまく、人間を含めた世界は、

 正しく道理にかなっているとは言い難いのです。

 聖書・バイブルの言葉を借りれば、

 人間を含めたこの世界は堕落しているのです。

 人間が、明るい未来を口にしても、

 まったく欠点や短所のない世界に、

 これから先、永遠になることはないのです。

 私は正しく道理にかなっている、

 だから神は正当に報いてくださる・・・・と考えることも、

 それは、思い上がりのなにものでもないのです。

 ただイエス・キリストに信頼し、

 その語りかけに聞き従うことしか、

 道は残されてはいない。

 やがて来る、必ず来る終わりのとき、

 つまり最後の審判のとき。

 神の裁きから救われ、

 来るべき世界に希望を見出して生きていくしか道は残ってはいない。

 終わりの日に向かって、

 聖書的な価値観に根ざした生き方をすることしか残されてはいない。

 その確かな証拠こそ、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

 生まれながらに負っている神にたいする罪深さという性質を、

 贖ってくださる方に信頼して歩むか否かにかかっているのです。


北白川 スー

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Wrote up on 29 July 2011.