福音が解き明かされない日本



 日本のキリスト教では、

 キリストの福音が解き明かされない。

 救いについて説かれない。

 罪についても語られない。

 ・・・・という現実があります。

 福音とは、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事、

 つまりキリストの贖罪のことであり、

 救いとは、神の怒りの裁きからの救いであり、

 罪とは、まぎれもなく原罪を指している。

 原罪とは、人間の生まれながらに負っている罪深さという性質です。

 福音についても、救いについても、罪についても、

 日本のクリスチャンの信仰は、

 また、キリスト教の教会は、

 どこまで聖書的な理解を重ねているのでしょうか。

 日本のクリスチャン人口が、

 いまだに1パーセントに低迷しているの理由は、

 教会が、クリスチャンとしての信仰が、

 聖書的なものになっていないからではないでしょうか。


 「 空の鳥をよく見なさい。

 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。

 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

 あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、

 寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。

 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。

 働きもせず、紡ぎもしない。

 しかし、言っておく。

 栄華を極めたソロモンでさえ、

 この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、

 神はこのように装ってくださる。

 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、

 信仰の薄い者たちよ。

 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

 あなたがたの天の父は、

 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 だから、明日のことまで思い悩むな。

 明日のことは明日自らが思い悩む。

 その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章26〜33節・新共同訳聖書)


 教会に必要と思い悩みを持ちこんでくる人たちが、

 それが信仰だと思いこんでいる人たちは、

 神は、私たち人間を豊かに養ってくださる存在であって、

 人間はもともと善なる存在であり、

 人間が思い悩むことがあるのは、

 ただ人間としての道を外れているだけなのでしょうか。

 考え方を変え、努力を傾ければ、

 すべては解決するのでしょうか。

 自分の可能性を信じて生きれば、

 すべては解決するのでしょうか。

 では、なぜ、

 罪を認めない神のひとり子イエス・キリストは、

 十字架にかけられ罪人として死刑となったのでしょうか。

 キリストの十字架の出来事とは、

 神のひとり子キリスト・イエスが、

 すべての人間に代わって、

 すべての人間の神への罪を身に負い、

 十字架にかかって死なれたという・・・出来事です。

 私たちの罪を贖ってくださったという出来事です。

 決して人間はもともと善なる存在ではなく、

 創造主なる神に背いた存在なのです。


 「 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、

 一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 03, 2012.