あなたは罪人だ
あなたは罪人だ、罪深い人なのだ・・・。
と、でも名指しで言われようものなら・・・、
きっと、だれだっていい気持ちはしないでしょう。
おとなしい人でもムッとするでしょうね。
キリスト教のものの考え方というものは、
”人間はもともとからして罪深い存在 ”でなければ成立しないものなのです。
ですから教会は、罪人の共同体ということになります。
キリスト教では、” 生まれながらに負っている罪深さ ”という考え方を前提としています。
それが、生まれながらに負っている罪深さ・「原罪」・ゲンザイ・と言われるものなのです。
ルール違反とか、交通違反とか、犯罪とか・・・、
私たちが、ときどき罪を犯すから罪深いのではなく、常に罪深いのです。
人間は、もともと罪深い存在として生まれてくるのです。
「わたしは咎(とが)のうちに産み落とされ、
母がわたしを身ごもったときも、
わたしは罪のうちにあったのです。」
(旧約聖書・詩篇・5章7節・ダビデの詩・新共同訳聖書)
私たち人間の、日常の暮らしの中にあっても、
その思いや言葉や行為といったものに罪深さがあらわれているのです。
まわりのせいでも、社会のせいでも、社会の構造のせいでもありません。
その原因が原罪なのですから。
人はみなすべて常に罪深いから、ときどき罪を犯すということなのです。
人をばかにしたり、ねたんだり、人を見下したり・・・・。
目に見える、形として分かる罪深さだけではなく、
知らず知らずのうちに罪を犯している場合だってあることでしょう。
現実の社会、現実の世界の姿を見てみましょう、
世界は人間の罪深さをあらわしている現実に満ちています。
戦争・・・や、地球の温暖化・・・や・・・・。
人間関係や家族間の不和だってそうかもしれません。
みな人間の罪深さのなせるわざなのです。
では、なぜ人間は、だれ一人の例外もなくみな罪深いのでしょうか。
聖書・バイブルは、
” ひとりの人によって罪が世界に入ってきた ” と語っています。
ひとりの人、すなわアダムが、
この世界を造られ、人間の始祖であるアダムをも造られた父なる神に背いたことにより、
世界に罪が入ってきたのです。
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章12節・参照)
ですから、人間みな一つの違反のために罪に定められのです。
ひとりの人の違反により罪が支配するようになったのです。
そうあればこそ、
「 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章17〜19節・新共同訳聖書)
救い主・メシアとして、
ひとりの人イエス・キリストを通して私たちは正しい者とされるのです。
それがキリストへの信仰・キリストへの信頼なのです。
北白川 スー
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Wrote up: 05 January 2009.