社会のシステムや構造ではなく人の心こそ


 未曾有の震災にみまわれた東日本・・・。

 安全神話が吹き飛んだ原子力発電・・・。

 復興へと歩みを始めたが、いまだに先は見えてはこない。

 若者は歌う・・・、

 人間の理性に訴えることによって・・・、

 人間の愛の中に希望も救いもあるのだと・・・・。

 しかし、そこに見えてくるものは、

 愛とは正反対の無関心なだけ・・、

 気がつかない人の多さ、

 むなしい言葉と、疲労とあせりと絶望感だけなのです。

 私たちの現実の姿を見れば、

 人間の愛など意味をなさないことは明白です。

 人間の愛を歌えば歌うほど、

 むなしい現実が浮き彫りにされるだけなのです。

 政治の舞台では、”頭 ”を変えれば国は良くなると言う・・・、

 しかし、問題なのは、その人の道徳性ではないかと。

 日本の社会では、

 社会の構造やシステムを変えることによって世の中は、

 社会の未来は明るいものになるのだと考えている。

 しかし、キリスト教の教えは、

 人の心を変えなければ、

 社会のシステムなど変わらないと・・・。

 社会の欠陥を人間性の欠陥にまでさかのぼって突き止めようとするのがバイブルの教えなのです。

 そう、私たちの内には欠陥があるのです。

 心そのものが変わらなければ・・・・、

 世の中など変わりはしない・・・。

 人間とは、生まれたときから罪深い存在であり、

 その状態から抜け出せないでいるのが真実の姿なのです。


 「 イエスは答えて言われた。

 よくよくあなたに言っておく。

 だれでも新しく生れなければ、

 神の国を見ることはできない。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・口語訳聖書)


 私たちは、社会の構造やシステムを変えることによって、

 世の中は、未来は明るいものになると信じています。

 しかし聖書は、


 「 では、人の誇りはどこにあるのか。

 それは取り除かれました。

 どんな法則によってか。

 行いの法則によるのか。

 そうではない。

 信仰の法則によってです。

 なぜなら、わたしたちは、

 人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、

 信仰によると考えるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章27〜28節・新共同訳聖書)


 人が正しいと神に認められるのは、

 人の手による行いではなく、

 人の心によるキリストへの信頼、

 心の向きをキリストへ向けること、

 キリストに聞き従う信仰・・・、

 神にある正しいことにたいする渇き(かわき)だけなのです。

 私たちのなすべきことは、

 まずは、静まることから始まるのかもしれない。

 自分自身を見つめてみることから、

 そうしなければ回心など始まらない。

 バイブル・聖書が語っているのは、

 行いの原理によるのではなく、

 信仰の原理によるのです。

 私たちすべての人間にたいして、

 従うことが求められている基本的な考えなのです。

 そうでなければ、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は意味を失うことになります。


北白川 スー

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Wrote up on 29 August 2011.