入信の理由・・それがどれだけ本質的かではなく


 日本のようにクリスチャンが極端に少ない社会で、

 クリスチャンに、その人がどのようにしてキリスト教の信仰を持つことになったかの理由を聞けば・・・、

 どのような理由で教会に行くようになったのかを、

 その理由を聞けば・・・。

 経済的な困難や、病気とか健康にかかわることであったり、

 難しい複雑な人間関係に苦しめられていたりと、

 個人的なことがらがそのきっかけとなり、

 また信仰の裏づけにもなっていて、

 ごく個人的な内的な必要から来ている場合が多い。

 日本の、外国の文化をたくみに取り入れて自分のものにしてしまう日本的な特徴を考えてみれば、

 他の国のその文化の中から生まれてきたものを、

 中身ではなく、らしさだけを、

 精神を除いた、

 満たすべき内容のない、

 見せかけだけを、

 抵抗なくすっと受け入れて自分のものに変えてしまう、

 日本人の独特な性質が、

 ものの見事にクリスチャンにも当てはめられるのかもしれない。

 キリストへの信仰というものを考えてみれば、

 信仰の本質を考えてみれば、

 神の愛と救いの恵みを知ったとき、

 つまりイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを知ったとき、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を知ったとき・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを知ったとき、

 人は神を見出し、

 礼拝へとうながされるものなのです。

 しかし、ひとりの人がすべての人のために死んだという、

 福音の本質に届かないまま、

 キリスト教の信仰を持つようになった場合、

 信仰生活は、最初のころは何事も目新しく新鮮なものなのですが、

 時間がたつごとに、教会の中の人間関係につまづき、

 福音の本質に届かないまま教会から離れて行くことになるケースが多いのです・・・。


 「 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。

 あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。

 それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

 あなたがたは、この世と妥協してはならない。

 むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、

 何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、

 かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・12章1〜2節・口語訳聖書)


 この世の人々の生活態度と調子を合わせてはいけない。

 むしろ、神のみこころは何なのか

 何が良いことで、

 神に受け入れられ、

 何が完全であるのかを見分けることができるように、

 心を一新して、自分を変えなさい・・・・と。

 現実的な問題に気持ちをうばわれている人にたいして、

 それがもっとも自分にとって大事で大切な問題なのだと信じている人にたいして、

 ”気づけ・・・”と言っても、

 聞く耳を持たない人にとっては意味をもちません。

 そうではなく、

 何ものにも代えがたい、

 他を圧倒するだけのものを示さなければ・・・、

 人はそれを、関心を持って、じっと見つめることはないでしょう。

 それが福音なのです。

 すなわち、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味なのです。

 つまり神の啓示なのです。 


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on 12 April 2011.