人には、それぞれの理由があって



人は、それぞれの理由があって教会にやってきます。
人間関係や夫婦の問題や子供たちのことや商売や健康への不安から・・・。
しかし、多くの場合、
教会に足を運ばせることになったきっかけの出来事において、
どこで躓いたのか(つまずいたのか)分からないままで教会にやってきます。
筋道から見て、どこで躓いたのかを明らかにしなければ、
根本的な解決には至らないはずです。
しかし問題なのは、
自分は、”何かに躓いている ”とは認識していないことなのです。
ものごとの本質を十分に理解し見分けていないのです。
それどころか、正反対の理解に終始しています。
自分の思う通りに行かないいらだちから、
自分の生き方が受け入れられない苦しさから、
自分の存在が評価されず傷つき落ち込み、
自分の働きが評価されない怒り・・・・等々。

だから、
自分の生き方にたいする肯定的な言葉と態度とを教会に期待して、
人は教会に足を運ばせているのでしょう。

キリスト教の教会なら、
自分のことを評価し受け入れてくれるものと期待して・・・・。

見方を変えれば、
現代社会の病理に傷ついた人たちとも見てとれるでしょうか。

しかし、キリスト教の本質は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事によって、
キリストの教会はこの世界に建っていますし、
クリスチャンの信仰の基になっていますし、
信仰そのものを支えるものなのです。

イエス・キリストの十字架による死と葬りと復活こそ福音そのものなのです。

「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

では、何からの救いなのでしょうか。
私たちが日々直面する様々な問題からでしょうか。

聖書・バイブルが語るのは、
神の怒りの裁きからの救いこそ、
私たちが直面している大きな問題なのです。
時間は残されてはいません。
私たちは、世界の終わりへと向かってひた走っているのです。
時間は刻一刻と流れています。
終局へと向かって。
時間は残されてはいません。

「 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、
光が上った。
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。
悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

(新約聖書・マタイによる福音書・4章16〜17節・新改訳聖書)

私たちは、なぜ神によって裁かれなければならないのでしょうか。
この答えこそ福音は教えています。


北白川 スー

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Wrote up on 03 July, 2013.