信仰心が、あるかないか
信仰について考えたとき・・・・。
人の心に、信仰心があるかないかということを考えたとき・・・・。
たとえれば、神や仏などの力や教えの通りに、
心から従うことを、
信じて疑わない心があるかないか・・・・。
信じて疑わないまでも、
神社にお参りして、さまざまな内容のものを願い求めたりします。
しかし、信仰心があるかないかは、
その人が人間的に成長しているからとか、成長していないからということではなく、
不足していたり、劣っているところがあるからということでもなく・・・・。
それらが、信仰心があるかないかの判断の基準ではありません。
ときには、
私には ” 信仰心がないから ” と、自分を低い者として控えめな態度をとったり、
自分を他の人より劣っているかのように装うことがあっても・・・・・・・、
そこには、相手にそれとなく、自分は信仰がなくてもやっていける自信があるのだと、
信仰など必要なく、前向きに生きていける人間なのだという・・・・。
神に頼らなければならないほど自分は ” 弱くはない ” という、
他の人に比べて能力や仕事に自信を持っているという、
優越感が見えかくれするものです。
向きを変えてみれば、
超自然的なものにたいする恐れであったり、
期待であったりします。
自分の属する人間関係において、
信仰について、話題にしたくない理由に・・・・、
自分を傷つけたくないという思いが・・・・、
信仰にかかわっていることを明らかにすることから引き起こされてくるものへの恐れとでもいうべきものでしょうか。
自分が信仰にかかわることによるリスクをあえて引き受けなければならないからです。
・・・・・・色々と信仰について考えさせられますが・・・・・、
このような話の筋書きの中に、
またその論議の基となる事柄として、
” 信仰する ” ということが人を評価する判断の基準ではなく・・・・・、
信仰の根拠となるものとして、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事・・・・・、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
その位置を持つなら。
実にこの位置付けがキリスト教の根本なのですが。
イエス・キリストの十字架の出来事から導き出される方向性として、
すべての人間は神に敵対している存在なのだという認識のもとで、
神にたいする罪のあがないと、復活によって新しい生を得ることができるという確しかな証し・・・・・。
だからイエス・キリストへの信頼が意味を持つということになるのです。
イエス・キリストへの信仰というものが、
人間の質であったり、地位であったり、
その人が置かれている状況や状態にかかわらず・・・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事という、
すべての人間にたいして明らかにされた ” 神の啓示 ” に基づいているのかどうかということが判断の基準にならなければならないのです。
つまり、信仰というものは、神への恐れに基づいていなければならないということなのです。
人間の始祖アダムが、この世界を造られた神に背いた結果、
それに続く私たち人間に向けられた神の、
神の怒りと裁きへの恐れに・・・・・・。
信仰心というものは、決して人間としての徳目に、慈善や博愛や孝行などに基づいてはいないのです。
信仰心は、人としての行動などのルールとしての道徳観や善悪の基準ではありません。
あくまでこの世界を造られた神への恐れと、神をうやまう心に根ざしているのが信仰なのです。
そこにおいてこそ初めて救いというテーマも明らかになってくるのです。
” 神の怒りと裁きからの救い ” という・・・・・・。
救われるために、神との和解が・・・・・・必要である。
それが、神との和解の出来事であるイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを知ることなのです。
その出来事の内容と意味とが自分に適用されるように・・・・・。
自分に当てはまるように、また取り扱われるように・・・・・。
心の奥底にしまいこまれていた信仰心を、
呼び起こさせる出来事として、
今まで知らされず意識されずあった、
イエス・キリストの十字架の出来事を知らされ、
またそれを聞くことによって、
それをきっかけに信仰心が呼び起こさせられるなら・・・・・。
「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳)
北白川 スー
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Wrote up: 09 October 2009.