救いについて語る前に



私たちが ”救い”という言葉を考えるとき、
目の前で起きている、いま経験している、
人間関係の争いや、病気や、金銭的な困難や、
何らかのトラブルや、
危険なことから救われたいと願い求めていることを考えます。
人の気持ちを少しでも解きほぐすことをいうのかもしれません

しかし、聖書・バイブルが言うところの救いは、
この世界を、私たち人間をも創造された父なる神と、
私たち人間との関係において語られています。
決して個人的な状況からの救いではありません。
決して時代の空気を反映したものではありません。
神と人間との関係において語っているのです。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章13節・新共同訳聖書)

キリストの十字架の出来事の上に立って、
主の名前を呼び求めることを・・・。

救いを語る前に、キリスト教の信仰において根本的な事柄を、
イエス・キリストの十字架の出来事を語らなければなりません。
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ、
(あがないのわざ)という出来事を・・・。
罪を認めないイエスを罪人として十字架にはりつけ、
死罪によって罰せられたという出来事をです。

この出来事を語らないでキリスト教の信仰を語るわけにはいきません。
この出来事を語らないで救いについて語るわけにはいかないのです。
かりにも、イエス・キリストの十字架の出来事が、
説かれず解き明かされないままの信仰が、また救いなら、
なんのための信仰なのか、何からの救いなのかを、
問い直さなければならないことでしょう。

イエス・キリストは、
この世界を創造された ”神のひとり子 ”であることを。
イエスは、この世界を創られた神のひとり子として、
人としてこの地上に生れ来られて、
そして十字架にかけられ死刑となったということを。

つまり、”神の怒り”がイエスの上に下されたという出来事が、
イエス・キリストの十字架による死という出来事なのです。
本来なら、創造主なる神に背いた罪深い人間たちにこそ、
神の怒りが下されなければならないところを、
イエス・キリストが身代わりとなって、
私たちの代わりとなって、
神の怒りを受けとめてくださったという出来事が、
イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

”救われた”とは、
神にたいして罪を負っている私たちに下されるはずの神の怒りから、
”神の怒りから救われた”ということなのです。
正確には、神の怒りの裁きから救われたということです。

イエス・キリストは、私たちに代わって神によって裁かれたのです。

生きている人も、かつて生きていた人も、
すべての人は、いずれ神の裁きの座の前に立たなければなりません。

神の怒りの裁き・・・という神への恐れを考えに入れた上で、
神の怒りの裁きから救われたい・・という願いは、
神のひとり子イエス・キリストに信頼を置いたとき・・、
創造主なる神は、私たちを創られた神は、
被造物としての私たちが、
創造主なる神の前で正しい者として立つことができる・・。
それが、キリストへの信頼であり信仰なのです。

イエスを自分の主権者とし、聞き従うことによって、
神の怒りの裁きから救われるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜18節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on February 08, 2014.