広く受け入れられないと言うよりも、


 この日本において、キリストが、キリスト教信仰が、

 あえて避けられているというわけでもなく、

 なぜ、広く一般に受け入れられないのかという疑問があります。

 ここで考えてみる価値があることとして、

 広く受け入れられないと言うよりも、

 受け入れたいと思っていても、

 キリスト教の信仰というものの内容と意味とが具体的に分からないので、

 教会に足をはこばせることを、ためらわせているのではないかと。

 キリストの教会において、

 その前提となるイエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事が常におこたることなく語られており、

 かつ広く知られていなけれぱならないということなのです。

 知られていてこそ、

 なぜ、受け入れられないのかという論評が可能になりえるはずです。

 それが受け入れられるに足りる出来事なのかどうがという判断は当の聞く者の心の内に聞かなければならないが。

 しかし、広く一般に知られているとは言い難いのが現実ではないだろうかと。


 「 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。

 同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

 『 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。

 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

 聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

 宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章12〜14節・新改訳聖書)


 神のひとり子であるイエスが十字架によって死刑となった、

 つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、

 すべての人の罪を、その身に負い、

 その罪のつぐないのため、あがないのためにご自身の命をささげられたイエス・キリストの出来事は・・・・、

 イエス・キリストの十字架の出来事は、

 死と葬りと復活という出来事は、

 ひとりの例外もなく、すべての人にたいして明らかにされた、

 神のわざなのです。

 だれひとりにたいしても語り伝えることをおこたることをゆるされない、

 神の啓示そのものなのです。

 この世界を造られた神から、すべての人間に向けて語られる内容のものなのです。

 決して、人々が自分のために教会に求めまた期待するものではないのです。

 啓示についての証しを通して私たちのところへ届くものなのです。

 イエス・キリストの十字架の出来事を通して、

 私たちのところへ届くものなのです。

 教会においてイエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされ、

 そして、それを事実であると受け入れ、

 自分の意志や決心を人前ではっきりと示すこと・・・・。

 それが救いへのとびらを開けた瞬間なのです。


 「 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。

 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)


 すでに神の啓示は2000年も前にあらわされました。

 私たちはそれを受け入れ、承認することだけが残されているのです。


北白川 スー

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Wrote up: 02 September 2009.