聞くチャンスに恵まれないキリストの十字架の話し


 キリスト教の信仰にとって決定的な事柄であるはずの、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とが語られる機会の少ない・・・この日本・・・。

 イエス・キリストの十字架の出来事は、

 ”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事です。

 むずかしく言えば、

 イエス・キリストは、私たちのために、

 ひとりの例外もなく、

 すべての人のために、

 この世界を創造された神の怒りに打たれて、

 十字架刑によって死なれたのです。

 神のひとり子イエスを・・・、

 この地上でただひとりの罪のない人としてのイエスを打たれたのです。

 私たちを神の怒りから救うために・・・・。

 なぜ、私たちは神の怒りを買わなければならないのでしょうか。

 私たちには原因があって、

 思わしくない結果を身に受けなければならないのです。

 しかし日本の多くの人は、

 神の怒りを受ける存在だとは思ってはいないはずです。

 罪など犯してはいないと言い張るのです・・・。

 しかし、私たち人間は、

 だれひとりの例外もなく、神の義を犯した存在なのです。

 私たちは常に、神に反抗的なのです。

 なぜなのでしょうか。


 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・口語訳聖書)


 どうして、私たち人間は罪深い存在になったのでしょうか・・・・。

 社会の悪い環境に影響されて悪くなったのでしょうか。

 いいえ、そうではありません。

 私たちは、生まれながらに罪深い性質を負っているのです。

 私たちは、罪深い性質を負って生まれてくるのです。

 私たちは罪深く、その状態から逃れることはできないのです。

 あえて言うならば、

 社会の悪や、社会の致命的な欠陥は、

 人間性の欠陥に原因があるのです。

 私たちはその現実を、多くの機会から知らされているはずです。

 それでも、将来確実にどうなるという目あてがないにもかかわらず、

 自分を信じて努力すれば、立ち直れると、

 はかない希望さえ抱いています。

 言い換えれば、

 いつまでたっても神にたいして戦いをいどんでいるのです。

 キリストへの信仰とは、

 その反抗的な心を改め、

 神に服従することを意味しています。

 なぜなら、イエス・キリストは、

 私たちのために、

 神の怒りに打たれて、

 十字架に死なれたのですから。

 現実の私たちをとりまく問題に満ち満ちた環境は、

 私たちが目にする自然は、

 人間は、自然から離れてしまっていることをあらわしています。

 つまり、神から離れてしまっているのです。

 むしろ、痛烈に、しっぺ返しを受けているはずです。

 私たちは、根本から悔い改めなければなりません。

 神への反抗に終止符を・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on 16 February 2011.