罪について



日本のキリスト教ほど ”罪 ”について説き解き明かさない
キリスト教の教会は他に例を見ないかもしれません。

あなたは罪人だ・・・。
あなたには罪がある・・・・。
とでも言われれば、よい気持ちはしませんし、
信仰につまずきかねないからなのかもしれません。

日本の教育の現場では、また社会一般では、
根強く進化論と性善説に基づき、また根差した教育がなされています。
司法や報道メディアも、根底に存在する基本的な考え方は同じです。
ですから、罪についても、キリスト教社会とは違った
意味のとらえ方をしているのかもしれません。

旧約聖書・新約聖書には、
合わせて700回をこえる罪を指し示す文言が使われています。

聖書・バイブルに登場する ”罪 ”という言葉の意味は、
的・標的に当て損なう、
的を外すという意味で使われています。
現代的に言えば、
写すべき被写体にレンズの中心を正しく向けていない。
その被写体自体が、見当違い、勘違いなものである場合・・・。
とでも言えばいいでしょうか。

聖書では、
人間が、神が求めれている神の意志から外れている状態を言いあらわしています。

創造主なる神は、人間を、
神の愛に育まれた素晴らしい存在として創られたのですが、
最初の人間であるアダムが、
神との愛の関係にとどまることを拒み、
神の命に背き罪に落ちたことにより、
それ以後、アダムに続く人間たちは、
罪の中をさ迷い歩かなければならなくなったのです。
この出来事こそ、”人間の罪 ”のそもそもの始まりなのです。

「また、アダムに仰せられた。
・・・あなたが、妻の声に聞き従い、
食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。・・・」

(旧約聖書・創世記・3章17節・新改訳聖書)

この出来事いらい、
人間は ”罪を負って”苦しみもがきながら生きて行かなければならなくなったのです。
この罪を”原罪・ゲンザイ ”と言います。
私たちが住まれながらに負っている罪深い本性的な性質なのです。
すべての人間の起源が罪にあることを言っているのです。

私たちがときどき過ちを犯すから罪深いのではなくて、
常に罪深いから罪を犯してしまうのです。
罪だとは気付かずに、
知らず知らずに罪を犯している場合も多々あります。

しかし、人間を創られた作者である神は、
もとから人間が神との関係にとどまることを望んでおられますし、
またそのように人間を創られたのです。

ですから、罪を負って生まれてくる人間にたいして、
創造主としての、創った者としての、
救済の意志とその実現を、
神の啓示として、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活によってあらわされたのです。
またその神の啓示を明らかにしているのが聖書の内容なのです。

私たちは、現実的な罪を犯します。
倫理的な道義的な過ちを、
人として踏み行なうべき道を外してしまいます。

それらはすべて、人間の本性的な罪の性質、
神の意志から外れている状態が引き起こしているのです。
生まれながらに負っている性質・罪深さは、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

大きな犯罪であっても、
小さな、行為にいたらなくても無数に犯し続けているものであっても、
それらはすべて、神にたいする的外れなのです。

「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、
神の律法に従っていないからです。
従いえないのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章7節・新共同訳聖書)

人間は神を恐れず、神に信頼することをしない。
自分の思いに立ち、自分のやり方や考え方を優先し、
自分の欲望をおさえることをしないで行動に走ってしまうものです。
目に見える形の過ちもあれば、
的を外していることすら、
過ちを犯していることすら気付いていない場合もあります。
そのような人たちのほうが多いのかもしれません。

ですから、このように言えるかもしれません。
”罪の自覚がなければ呪いも効きめを持たない。”
自分の行為や考え方そのものが、
的を外しているものだと分からなければ、
いつまでたっても的を外していることに気付かないのです。
的を外していると気付けば、
自分の犯した罪の深さが自覚できますし、
それだけ心は責められ不安にもなりますし、
修正もできるでしょう。

自分は、呪われた状態だと気付けば、
呪いから解き放たれたいと願い求め始めます。
苦しく困難な立場に追い込まれていることに気付きますから、
そこから救われたいと、逃げたいと、
救い出されたいと思うわけです。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、
わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。
・・木にかけられた者は皆呪われている・・と書いてあるからです。」

(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・3章13節・新共同訳聖書)

苦境の中にある人間のために、
神はご自身を私たちと同じ境遇にまで自分を低くし、
私たちに代わって、
私たちが犯し続けている神への背きの罪を背負われたのです。
さらに、神の怒りをキリストの上に下し、命をもって罪をつぐなわせられたのです。

「キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・新共同訳聖書)

キリストへの信仰というものは、
決して罪を責めるものではありません。
神の愛に立ち返らせることなのです。
”自分の罪 ”という認識というものが、
自分の欠点だと、悩み続けるというようなものではなく、
罪にたいして苦しみ続けるというのではなく、
ただ人間という存在は、
弱くて愚かな存在だということを確認することであり、
さらに、人間の小ささを、
ありのままの姿を神は知っておられて、
なおかつ愛してくださっているという実感を持つことなのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ
(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを知ることによって、
私たちは神の献身と愛を知ることになるのです。

人間の罪について、
キリストの十字架の出来事について説き解き明かされないなら、
愚かで鈍い私たちは、神の愛と献身とを理解することはできません。


北白川 スー

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Wrote up on October 31, 2013.