信仰はチャレンジなのか
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信仰はチャレンジなのでしょうか。
いいえ、かんばることを止めることです。
すべてのがんばりから身を引くことなのです。
信仰を持つということは、
しなければならないということではなく、
今までからの方向転換なのです。
キリストへの信仰とは、
人間の根っこの部分に焦点を合わせるものです。
だから、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
私たちの根っこの部分から根本的に方向転換する出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
私たちの本性にスポットライトを当てるものです。
私たちの本性と言って間違いないでしょう。
自分の生き方や思いや考えや行為や行動、
言葉にいたるまで、すべてからの方向転換なのです。
ですから、がんばる必要などないのです。
「 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)
だれ一人の例外もなく、
すべての人は、神に背き罪を犯したので、
創造主なる神から栄誉を受けることができないでいます。
ただ、神の恵みにより、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのゆえに、
その出来事を信じて受け入れることによって、
価なしに義と、
神の前で正しい者として認められるのです。
ですから、がんばる必要などありません。
神を知らないで、がんばってきた私たちのスタイルが、
現在の、混乱に満ちた、
問題に満ちあふれた、
罪に満ちた人間社会を形作ってきたのです。
そこからの方向転換こそ、
創造主なる神が求めておられることなのです。
私たち人間は、
神に似せて、素晴らしいものとして神の形に作られのです。
しかし、神に背いて罪に落ちた人間たち・・・・。
その罪は、常に、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが罪に落ちた人間の姿そのものなのです。
創造主なる神は、被造物としての、
神の作品としての私たちに、
罪に落ちてしまった私たちに、
作者としてのあわれみをあらわされたのです。
それが、究極の決断と態度の決定という出来事・・・。
ご自身のひとり子・イエス・キリストを人として、
私たちの世界に生まれさせ、
罪の中にある私たちに代わって、
罪人として十字架につけ、
イエス・キリストの上に、
神の怒りを下された、
イエス・キリストの十字架の出来事なのですのです。
神との和解の出来事なのです。
「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新改訳聖書)
どういうわけか、人は
クリスチャンになった途端にがんばり始めます。
「 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章24節・口語訳聖書)
すでにイエス・キリストは、
その命をささげてくださったのです。
その命を無にしてはいけません。
「 わたしは、神の恵みを無にはしません。
もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、
それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・2章21節・新共同訳聖書)
決して信仰はチャレンジではないのです。
がんばることではないのです。
「 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・6章20節・新改訳聖書)
イエス・キリストの十字架の出来事を知るまでは、
自分たちの置かれているところが不安定なことに気付いていなかったのです。
自分の生き方や考え方が正しいとさえ思っていたわけです。
そのように思うのは、人間の罪深さというものが、
とてつもなく心の深いところにあるからです。
聖書・バイブルが語っているのは、
人間の意志や行為や努力によっては、
救いは得られないということです。
「 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、
ただ神のあわれみによるのである。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・9章16節・口語訳聖書)
「 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。
そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・11章6節・口語訳聖書)
ですから信仰はチャレンジではありません。
信仰は努力を積み上げることではないのです。
神からの恵みそのものなのです。
ただそれを受け取るか受け取らないかの問題なのです。
受け取るか受け取らないという意味でのチャレンジならば、
それは、自我にたいするチャレンジそのものです。
自分を捨てて、イエス・キリストに従うことへの抵抗のほかのなにものでもありません。
信仰は、
イエス・キリストの十字架の出来事によって、
すでに用意されたものです。
必要なのは、それを受け取ることだけなのです。
北白川 スー
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Wrote up on August 30 , 2012.