この日本で解き明かされることのない福音



カトリックからプロテスタント、
福音派やペンテコステやリベラルなど、
この日本では、
なぜか ”福音 ”が説き解き明かされる機会はすこぶる少なく稀です。

イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の内容と意味とが、
説き解き明かされることはめったになく珍しいのです。
キリスト教の信仰にとって、
キリスト教を、その信仰を、
成り立たせ、形作る上で、
もっとも大切な働きをするものであるにもかかわらずに・・。

なぜ、キリストの十字架の出来事の内容と意味とが、
説き解き明かされないのでしょうか。
それが日本の特別な理由なのかもしれません。

いつだかは分からないが必ずやって来る、
イエスが再び来られるとき、
イエス・キリストの再臨とも来臨とも言われるとき。
私たちはイエス・キリストと相まみえることになります。
キリストとの再会のときなのです。
そのときこそ、すべてが明らかとなります・・・。
信仰というものの中身は、
まだ見ぬ希望そのものなのですが、
その希望が現実となるとき・・・。
それは死者の復活のときです。
かつて生きていた人も復活します。
復活のとき、始めて知ることになります。
すべてのことが、なぜにそうだったのか・・・を。
しかし、福音が解き明かされていなければ、
その時を、喜びを持って迎えることはできません。

来たるべき日に、再びイエスが光輝く栄光の中を来られるとき、
信仰者は、すべてを理解することになります。
それまでは、ただ漠然としたものであったものが、
はっきりしないものであったものが、
具体的に実現するわけです。
キリストとの再会を・・・。
永遠の命を・・・。

クリスチャンであったも、
信仰生活というものは不安の多いものです。
誘惑や試みの日々の連続だからです。
ただ信じるだけですから。
しかし、それが現実のものとなるとき、
理解しがたく不安であったものが、
なぜそうだったのか、
はっきりと見えてきます。
すべてを理解する時となるのです。
目に見える形で実現するからです。

東日本大震災が起きてからというもの、
日本のキリスト教は、
家族を失い友を失った人たちへ、
暮らしそのものを失った人たちへ、
なぜに苦しまなければならないのかを説明しないで、
心を弱らしている人たちの励ましに日々を労し費やしています。
キリストに聞き従っていたなら、
失われずに済んだ命だったでしょう。
すでにイエス・キリストは、
私たちに代わって、
十字架にその命を捧げられたのですから。

その励ましが、福音による希望ではなく、
ただ人間的な人間同士の励ましである場合は、
それは空しいものなのです。

キリスト教が目指すもの、
それが、もっと先の、さらに遠くのものであっても、
希望を持って待ち望むことができるように、
くりかえし福音を説き解き明かさなければならないのです。

仮にも、信仰が目先の具体的な現実の物を求めるものであるなら、
それは、ご利益信仰のなにものでもありません。

「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、
神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、
共に産みの苦しみを味わっていることを、
わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、
“ 霊 ”の初穂をいただいているわたしたちも、
神の子とされること、
つまり、体の贖われることを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章21〜24節・新共同訳聖書)

元気をだせ、兄弟たち。
私たちは救われたのだから。

しかし、その ”救い ”の意味が分からないのなら、
その励ましは空しいものなのです。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on October 23, 2013.