救いとは何か


 聖書・バイブルが語る救いとは、神の裁きから・神の審判からの救いのことなのです。

 私たちは、今の、現実に出会っている困難や苦しみからの救いというものを考えますが、

 聖書・バイブルは、まぎれもなく、

 神の裁きからの救いを語っているのです。

 この世界を造られ、

 また私たち人間をも造られた創造主なる神・・・。

 その神に背いてしまった人間・・・。

 最初の人間・アダム・・・。

 そのアダムが、創造主なる神に背いてからというもの、

 取って食べると必ず死ぬから取って食べるなと命じられていた木の実を取って食べたことによって・・・・。

 それに続く人間たちは、

 生まれながらに罪深さを背負ってしまったのです。

 神にたいする罪深さを・・・。

 生まれながらに負っている神にたいする罪深さ・・・。

 その罪深さという性質が、

 私たちの思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、

 神にたいして、

 人にたいして、

 自分にたいして罪を犯してしまうのです。

 私たちはときどき過ちを犯すから罪深いのではなく、

 常に罪深いから、ときどき過ちを犯してしまうのです。

 それが、私たち人間の置かれた現実の姿なのです。

 救われ難い現実の世界・・・・。

 神によって裁かれるのが私たちの定めなのです。

 しかし、この世界を造られた神は、

 創造主なる神は、

 被造物である私たち人間にたいして、

 創造主としての愛を示されたのです。

 作者が作品にたいする愛・・・そのものなのです。

 しかしまた、不出来な作品は、

 作者によって壊されることもあります。

 壊されるのなら救いなどありません。

 しかし、

 イエス・キリストは、罪深い私たちに代わって、

 私たちの罪深さをその身に負って、

 神によって裁かれたのです。

 それこそが十字架の出来事なのです。

 神のひとり子イエス・キリストは、

 罪人として十字架にかかり死刑となった・・・。

 死ぬことによって、私たちの罪を、

 命を代価として、私たちの罪深さを贖って(あがなって)くださったのです。

 ご自身の命をささげることによって、

 私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。

 この十字架の出来事こそ、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

 この出来事こそ福音の内容であり意味そのものなのです。


 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、

 不敬虔な者のために死んでくださいました。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章6節・新改訳聖書)


 仮にも、キリスト教の教会で、このイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが解き明かされないのなら・・・・。

 私たちは、身勝手な救いについての解釈と感想とを持ちます。

 いやそれどころか、イエス・キリストについてさえ、

 正確な情報を手にすることはないでしょう。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事が解き明かされてこそ、

 私たちの救いということがらも明らかになるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 22 February 2010.