福音は、社会や私たちを変えることができる



福音、すなわち、ひとりの人がすべての人のために死んだという。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ・贖罪の出来事は、
私たちや、社会を根本的に変えてしまう力を持っているのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

福音は、現在の混沌とした社会を、
文化的で健康な、
物質的な豊かさと快適さをもたらすものに変えることではありません。
現代の苦しみと痛みに満ちた混沌とした社会は、
人間の本性が、人間の罪深さが作り上げてきたものだからです。

近代的で文化的と言われる、物にあふれた現代社会は、
その便利さを生活の中に取り入れてきた私たちの暮らし向きは、
決して、神の恵みの結果ではないのです。
神の恵みではなく、人間の罪深さに、その原因があるのです。

聖書・バイブルが語る、神の恵みとは、
私たちのために、ご自身のひとり子イエスを、
その命をささげられた出来事に他ならないのです。

天地万物の創造のとき、
創造主なる神は、人間を素晴らしいものとして造られました。
しかし、最初の人間アダムは、神に背き、
神に逆らい、神に聞き従わず、
取って食べることを禁じられていた善悪を判断する知識の果実を、
取って食べてしまったのです。

善悪の判断は、神の領域に属しています。
禁じられていた禁断の果実を食べたことにより、
人間は、神の意志に反して、自分たちで善悪を判断し始めたのです。

すなわち、私たちが、私たちの道徳的な行動の基盤と考えているものは、
実は、先天的なものなのです。
そのときから始まったのです。
生まれながらに負っている罪深い性質そのものなのです。
人間は、罪深さにとらわれ、その状態から逃れられないのです。

「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」
(旧約聖書・詩篇・51章7節・新共同訳聖書)

この日本では、このような考えには反論があります。
人間は、もともと善なる存在で、
けがれのない状態で生れてくるものであり、
社会の悪い環境などで、人は悪くなるのだと・・・。
だから、罪を犯してしまった人には、
再教育によって、人を立ち直らせることができると・・・。
過失にたいしては、
教育というチャンスを与えるのが、人の道なのだと・・・。
日本の文化は、ことごとく、
懲罰を罪のつぐないとは考えず、再教育のチャンスと考えます。

肉体的な苦痛を与えることによって罪がつぐなえるという考えこそ、
罪にたいしては死をもってつぐなうという・・・。
これは神の決められた律法です。

だからキリストの福音のみが、私たちを救うこができるのです。

私たちは罪深い存在であることの意味を理解し、
私たちの思いや言葉や行為や行動にいたるまで、
悔い改めるなら・・・・。
自分たちの言葉や行動に責任を持つことを・・・当然のことと考えるならば、
私たちは大きく変われることができるのです。

キリスト教の信仰は、決して繁栄を約束しているのではなく。
私たちの愚かさ弱さを明らかにして、
神の意志に従う生き方が、
イエス・キリストに聞き従う生き方こそが、
被造物としての人間として最善のものであることを明らかにするのです。

キリストは、不敬虔な不信心な者のために死んでくださったことを忘れてはならない。


北白川 スー

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Wrote up on June 20, 2014.